皇極天皇(二十六)鞍作得志と虎

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皇極天皇(二十六)鞍作得志と虎

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原文

夏四月戊戌朔、高麗學問僧等言。同學鞍作得志、以虎爲友學取其術、或使枯山變爲靑山、或使黃地變爲白水、種々奇術不可殫究。又虎授其針曰、愼矣愼矣、勿令人知、以此治之病無不愈。果如所言、治無不差。得志、恆以其針隱置柱中。於後、虎、折其柱取針走去。高麗国、知得志欲歸之意、與毒殺之。

現代語訳

(即位4年)夏4月1日。高麗の学問僧(モノナラウホウシ)たちが言いました。
「同学の鞍作得志(クラツクリノトクシ=人名)が虎を友として、その術(バケ)を学び取りました。あるいは枯山を青山に変えました。あるいは黄色い土地を白い水に変えました。種々の怪しき術を、極めるべきではありません。また虎はその針を授けて言いました。
『ゆめゆめ、人に知られてはいけない。これで治療すれば、病気が癒えないことはない』
言った通り、治療すると病気が治らないことはありませんでした。得志(トクシ)は常にその針を柱の中に隠しておいていました。後の事です。虎はその柱を折って割り、針を取って逃げ去りました。高麗国は得志が帰ろうと思う心を知って、毒を与えて殺してしまいました」
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解説

鞍作得志というのは日本人で、得志という人物はここ以外では登場しませんが、「鞍作」という集団はこれまでにもちょくちょくと登場しています。具体的には「鞍作福利(通訳で遣隋使に)」「鞍作鳥(仏像作りの工人)」です。彼らはどうやら中国や朝鮮の文化を吸収する役割を果たしていたようです。

ところで問題なのが蘇我入鹿の別名が「鞍作大臣」と呼ばれていることです。蘇我入鹿は鞍作だった? わけは無いでしょう。蘇我入鹿は鞍作と関係が深かった。つまり中国朝鮮の文化の吸収に積極的だったから、そういうニックネームがついたのでしょうね。

日本書紀でこれまでに語れた「虎」の物語は、「欽明天皇(三十七)膳臣巴提便と虎」のみ。ほとんど虎というのは物語の材料として扱われません。なぜなら日本に虎がいないからです。
物語は欠けている
舞台は高麗。高麗にやってきた鞍作得志は、「虎」に学びます。奇妙な術を学んだようです。その虎から「なんでも病気が治る針」をもらうのですね。ところが虎に針を奪われて、政府高官に毒を盛られて死んでしまった。

いや、この物語はおかしい。
得志は虎に学んだ中で「病気が治る針」をもらった。そして、何か悪用したはずなんです。じゃないと針を奪われる展開は不自然です。虎に「ゆめゆめ、人に知られるなよ」と言われたのに、針を使って誰かを助けたのでしょう。素直に考えれば、王族の誰かです。王族の誰かを救い、英雄となった得志なのですが、これは王の側近に妬まれてもおかしくありません。もしくは記述通りに、高麗から帰ってしまうのが嫌だったのかもしれませんね。それで毒を盛られて殺された。本来ならば、毒なんて「針」があれば助かるのに、です。

これは本来は約束を守ることの大切さを示した「寓話」のはずです。
物語の意味
この物語を高麗の学問僧が語っているところを見るに、仏教が民間信仰的な道教を見下し批判したお話に見えます。道教なんてものに関わったから得志は死んだ。道教はダメ。そんな意味かもしれません。

仮にそうであったとしても、鞍作得志なる人物が高麗にわたって、そこで死んでしまったのは事実なんだと思います。死んだ理由に、こう言った物語が付帯された。本当の理由は分かりません。もしかすると、高麗が自国に留め置きたいから、大和朝廷についた「嘘」がそのまま残ったのかもしれません。
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