天武天皇(百二十一)畿内の兵器を検校・全国の民の消息を調べる

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天武天皇(百二十一)畿内の兵器を検校・全国の民の消息を調べる

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原文

九月甲辰朔壬子、天皇宴于舊宮安殿之庭。是日、皇太子以下至于忍壁皇子、賜布各有差。甲寅、遣宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王於京及畿內、各令校人夫之兵。戊午、直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者・直廣肆石川朝臣蟲名爲東山使者・直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者・直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者・直廣參路眞人迹見爲南海使者・直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫使者、各判官一人・史一人、巡察国司・郡司及百姓之消息。

現代語訳

(即位14年)9月9日。天皇は旧宮(フルミヤ=どこの宮を指しているかは不明)の安殿(アンドノ)の庭で宴(トヨノアカリ)をしました。この日に皇太子より下の、忍壁皇子まで、布を与え、それぞれに品がありました。
9月11日。宮処王(ミヤノトコロノオオキミ)・広瀬王(ヒロセノオオキミ)・難波王(ナニワノオオキミ)・竹田王(タケダノオオキミ)・弥努王(ミノノオオキミ)を京(ミサト)と畿内に派遣して、それぞれの人夫(オオミタカラ=民)の兵器を検校させました。
9月15日。直広肆の都努朝臣牛飼(ツノノアソミウシカイ)を東海使者としました。直広肆の石川朝臣蟲名(イシカワノアソミムシナ)を東山使者としました。直広肆の佐味朝臣少麻呂(サミノアソミスクナマロ)を山陽使者(カゲトモノミチノツカイ)としました。直広肆の巨勢朝臣粟持(コセノアソミアワモチ)を山陰使者(ソトモノミチノツカイ)としました。直広参の路真人迹見(ミチノマヒトトミ)を南海使者(ミナミノミチノツカイ)・直広肆の佐伯宿禰広足(サエキノスクネヒロタリ)を筑紫使者としました。それぞれに判官(マツリゴトヒト)を一人・史(フビト)を一人をつけて、国司・郡司と百姓の消息(アルカタチ)を巡察させました。
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解説

民の再把握
東海道、東山道、山陽道、山陰道、南海道、筑紫へと、百姓の数などを調べに派遣した。ということは、この時点で関東は大和朝廷の管轄下にあったということです。その百姓から税を取るから人数を確認するのですからね。しかし、これ以前にも関東の民に税をかけている様子は描かれていますから、税は取っていたはずです。ではどうして、また調べるのか? どうやら民は自分の土地を捨てて他の土地に移り住んで税を逃れていたようで、この脱税を封じるためにも、もう一度正確に把握する必要があったんじゃないかなと思います。
それに国司や郡司が正確に税を納めているか怪しいですし。
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