持統天皇(一)出自と即位の経緯

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持統天皇(一)出自と即位の経緯

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原文

高天原廣野姫天皇、少名鸕野讚良皇女、天命開別天皇第二女也、母曰遠智娘更名美濃津子娘、天皇深沈有大度。天豊財重日足姫天皇三年、適天渟中原瀛眞人天皇爲妃。雖帝王女而好禮節儉、有母儀德。天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮。十年十月、從沙門天渟中原瀛眞人天皇、入於吉野避朝猜忌、語在天命開別天皇紀。

天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月、從天渟中原瀛眞人天皇、避難東国、鞠旅會衆遂與定謀、廼分命敢死者數萬置諸要害之地。秋七月、美濃軍將等與大倭桀豪、共誅大友皇子、傳首詣不破宮。二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。
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現代語訳

高天原広野姫天皇(タカマノハラヒロノヒメノスメラミコト)は幼少の時の名前は鸕野讚良皇女(ウノノサララノヒメミコ)と言います。天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケノスメラミコト=天智天皇)の二番目の皇女です。母を遠智娘(オチノイラツメ)と言います。
別名を美濃津子娘(ミノツコノイラツメ)と言います

天皇は深沈(シメヤカ=落ち着いた様子)で、大度(オオキナルノリ=大きな器)がありました。天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト=斉明天皇)の3年に天渟中原瀛真人天皇(アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト=天武天皇)の妃となりました。帝王の皇女といえでも、礼を好み、節度があって完璧な欠けるところのない人物でした。母儀徳(オモタルイキオイ=母としての道徳)がありました。

天命開別天皇(=天智天皇)の即位元年に草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)を大津宮(オオツノミヤ)で産みました。
天智天皇即位10年の10月に沙門(シャモン=僧)となった天渟中原瀛真人天皇(=天智天皇)に従って、吉野に入って、朝廷の猜忌(ウタガイ=疑い)を避けました。このことは天命開別天皇(=天智天皇)の紀にあります。

天渟中原瀛真人天皇(=天智天皇)の即位元年の夏6月。天渟中原瀛真人天皇(=天智天皇)に従って、災いを東国に避けました。旅(イクサ=軍隊)に告げて、衆(モロヒト)を集めて、一緒に謀略を定めました。そして軍を分けて、敢死者(タケキヒト=死を恐れぬ人)数万人に銘じて、諸々の要害の地に置きました。

秋7月。美濃の将軍たちと大倭の桀豪(イサオ=勇ましい人)とで共に、大友皇子(オオトモノミコ=天智天皇の皇子)を誅殺して、首を不破宮(フワノミヤ=美濃国不破郡野上郷=岐阜県不破郡関ケ原町野上の宮)に持って行きました。

天智天皇即位2年。皇后となりました。皇后は、最初から今まで天皇を助けて天下を定めました。常に仕えているいる間、進言・政治に及び、助け補うところが多かったです。
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解説

持統天皇は天智天皇の娘で、天武天皇の皇后でもあります。天智天皇と天武天皇は兄弟なので、天武天皇と持統天皇は、叔父と姪の関係になります。
ちなみに母親の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘です。
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