スポンサードリンク
持統天皇(一)出自と即位の経緯
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
高天原廣野姫天皇、少名鸕野讚良皇女、天命開別天皇第二女也、母曰遠智娘更名美濃津子娘、天皇深沈有大度。天豊財重日足姫天皇三年、適天渟中原瀛眞人天皇爲妃。雖帝王女而好禮節儉、有母儀德。天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮。十年十月、從沙門天渟中原瀛眞人天皇、入於吉野避朝猜忌、語在天命開別天皇紀。
天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月、從天渟中原瀛眞人天皇、避難東国、鞠旅會衆遂與定謀、廼分命敢死者數萬置諸要害之地。秋七月、美濃軍將等與大倭桀豪、共誅大友皇子、傳首詣不破宮。二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。
天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月、從天渟中原瀛眞人天皇、避難東国、鞠旅會衆遂與定謀、廼分命敢死者數萬置諸要害之地。秋七月、美濃軍將等與大倭桀豪、共誅大友皇子、傳首詣不破宮。二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。
スポンサードリンク
現代語訳
高天原広野姫天皇(タカマノハラヒロノヒメノスメラミコト)は幼少の時の名前は鸕野讚良皇女(ウノノサララノヒメミコ)と言います。天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケノスメラミコト=天智天皇)の二番目の皇女です。母を遠智娘(オチノイラツメ)と言います。
天皇は深沈(シメヤカ=落ち着いた様子)で、大度(オオキナルノリ=大きな器)がありました。天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト=斉明天皇)の3年に天渟中原瀛真人天皇(アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト=天武天皇)の妃となりました。帝王の皇女といえでも、礼を好み、節度があって完璧な欠けるところのない人物でした。母儀徳(オモタルイキオイ=母としての道徳)がありました。
天命開別天皇(=天智天皇)の即位元年に草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)を大津宮(オオツノミヤ)で産みました。
天智天皇即位10年の10月に沙門(シャモン=僧)となった天渟中原瀛真人天皇(=天智天皇)に従って、吉野に入って、朝廷の猜忌(ウタガイ=疑い)を避けました。このことは天命開別天皇(=天智天皇)の紀にあります。
天渟中原瀛真人天皇(=天智天皇)の即位元年の夏6月。天渟中原瀛真人天皇(=天智天皇)に従って、災いを東国に避けました。旅(イクサ=軍隊)に告げて、衆(モロヒト)を集めて、一緒に謀略を定めました。そして軍を分けて、敢死者(タケキヒト=死を恐れぬ人)数万人に銘じて、諸々の要害の地に置きました。
秋7月。美濃の将軍たちと大倭の桀豪(イサオ=勇ましい人)とで共に、大友皇子(オオトモノミコ=天智天皇の皇子)を誅殺して、首を不破宮(フワノミヤ=美濃国不破郡野上郷=岐阜県不破郡関ケ原町野上の宮)に持って行きました。
天智天皇即位2年。皇后となりました。皇后は、最初から今まで天皇を助けて天下を定めました。常に仕えているいる間、進言・政治に及び、助け補うところが多かったです。
別名を美濃津子娘(ミノツコノイラツメ)と言います
天皇は深沈(シメヤカ=落ち着いた様子)で、大度(オオキナルノリ=大きな器)がありました。天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト=斉明天皇)の3年に天渟中原瀛真人天皇(アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト=天武天皇)の妃となりました。帝王の皇女といえでも、礼を好み、節度があって完璧な欠けるところのない人物でした。母儀徳(オモタルイキオイ=母としての道徳)がありました。
天命開別天皇(=天智天皇)の即位元年に草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)を大津宮(オオツノミヤ)で産みました。
天智天皇即位10年の10月に沙門(シャモン=僧)となった天渟中原瀛真人天皇(=天智天皇)に従って、吉野に入って、朝廷の猜忌(ウタガイ=疑い)を避けました。このことは天命開別天皇(=天智天皇)の紀にあります。
天渟中原瀛真人天皇(=天智天皇)の即位元年の夏6月。天渟中原瀛真人天皇(=天智天皇)に従って、災いを東国に避けました。旅(イクサ=軍隊)に告げて、衆(モロヒト)を集めて、一緒に謀略を定めました。そして軍を分けて、敢死者(タケキヒト=死を恐れぬ人)数万人に銘じて、諸々の要害の地に置きました。
秋7月。美濃の将軍たちと大倭の桀豪(イサオ=勇ましい人)とで共に、大友皇子(オオトモノミコ=天智天皇の皇子)を誅殺して、首を不破宮(フワノミヤ=美濃国不破郡野上郷=岐阜県不破郡関ケ原町野上の宮)に持って行きました。
天智天皇即位2年。皇后となりました。皇后は、最初から今まで天皇を助けて天下を定めました。常に仕えているいる間、進言・政治に及び、助け補うところが多かったです。
スポンサードリンク
解説
持統天皇は天智天皇の娘で、天武天皇の皇后でもあります。天智天皇と天武天皇は兄弟なので、天武天皇と持統天皇は、叔父と姪の関係になります。
ちなみに母親の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘です。
ちなみに母親の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘です。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
持統天皇(日本書紀30巻)の表紙へ
- Page1 持統天皇(一)出自と即位の経緯
- Page2 持統天皇(二)臨朝称制・大津皇子の謀反と死、その人物像
- Page3 持統天皇(三)大津皇子の謀反の後処理・礪杵道作を伊豆に流す
- Page4 持統天皇(四)大来皇女の帰京・無遮大会を5つの寺で設ける
- Page5 持統天皇(五)殯宮の慟哭・京師の80歳上と篤癃と貧しいものに施し
- Page6 持統天皇(六)丹比真人麻呂の誄・隼人の大隈と阿多の魁帥の誄
- Page7 持統天皇(七)負債者の利を免除・御青飯という・天武天皇の服で作った袈裟
- Page8 持統天皇(八)喪服を着て東に向いて3回拝んで3回発哭
- Page9 持統天皇(九)国忌の日に必ず斎すべし
スポンサードリンク