松浦県の玉島里

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松浦県の玉島里

投稿日時:2019-04-26 11:22:53
漢字・読みマツラノアガタノタマシマノサト
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松浦県の玉島里とは

松浦県玉島里は古事記に登場する地名。神功皇后が儀式をした土地。日本書紀では「玉嶋里」と表記される。古事記では朝鮮征伐後の出来事として。日本書紀では仲哀天皇の死後、朝鮮征伐の前の出来事として書かれている。どちらも「4月」のこととある。

神功皇后は玉島里で服の糸をほどいてご飯粒を餌にして魚を釣ります。川の中の岩に立って釣りをしていること、岩の女神の名前をあげていること、その儀式が毎年四月に行われていることが古事記に書かれているところを見ると、玉島里の神事だったと考えるべきでしょうね。釣果で今年の運勢を占うとか。恐らくは稲作の豊作の占いだと思います(米粒でつってるから)。

日本書紀ではその神事を「誓約」の儀式だとして、鮎が釣れたのを見て「珍しい」と言ったことで、その土地の名前が「メズラ」から「マツラ(末羅・松浦)」になったとしています。

この松浦は魏志倭人伝にも登場する「末盧国」だろうと思われます。末盧国は4000戸(=戸は家の単位=人口を表す)で王に関する記述はない。中国の使者が朝鮮→対馬→壱岐→末盧と船で移動しているので、貿易の要港だったよう。
●魏志倭人伝に「王がいた」と記述があるのは邪馬台国・狗奴国・伊都国だけ。魏志倭人伝によると末盧国から陸路で500里行った先に伊都国があり、帯方郡からの使者が滞在するとあるので、政治的には伊都国(=伊斗村=人口1000戸)の方が上だったのだと思われる。

比定地佐賀県東松浦郡浜崎玉島町(浜玉町)
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古事記からの引用

筑紫の末羅県の玉島里
筑紫の松浦県(マツラノアガタ)の玉島里(タマシノサト)に到着して、川のほとりで食事をしたのが4月の上旬でした。
皇后は川の岩に立って、腰布の糸を抜き、ご飯粒を餌にして、鮎を釣りました。
それでその川を「小河」といいます。
またその岩の名前を勝門比売(カチトヒメ)といいます。
それで4月上旬のころ、女性が腰布の糸を抜いて、ご飯粒を餌にして鮎を釣ることが、絶えず行われています。

日本書紀からの引用

神功皇后(五)火前国松浦国・梅豆羅国の地名説話
仲哀天皇即位9年)夏4月3日。北の火前国(ヒノミチノクチノクニ=肥前国)の松浦県(マツラノアガタ=末羅県=魏志倭人伝の末廬国?)に到着して玉嶋里(タマシマノサト)の小河のほとりで食事をしました。そこで皇后は針を勾(マ=曲)げて鉤(チ=釣針)をつくって、粒(ヒイボ=米粒)を取って餌にして、裳(ミモ=衣服)の糸を取って緡(ツリノオ=釣り糸)にして河の中の石の上に登って、鉤(チ)を投げて、祈(ウケイ=誓約)をして言いました。
「わたしは西の方の財(タカラ)の国を求めようと思う。もしも事を成すならば、河の魚(イオ)は鉤(チ)を飲めっ!」
それで竿をあげると、細鱗魚(アユ=鮎)が取れました。それで皇后は言いました。
「珍しいものだ」
希見は梅豆邏志(メズラシ)と読みます。
それでその時代の人はその場所を梅豆羅国(メズラノクニ)といいます。今、松浦(マツラ)というのは訛ったからです。
それでその国の女性は4月の上旬になると、鉤を河中に投げて年魚(アユ)を捕るということを今でも絶えずやっています。ただし、男は釣っても魚が取れないのです。
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