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速谷神社
漢字・読み | ハヤタニジンジャ |
概要
住所:広島県廿日市市上平良308-1
祭神:飽速玉男命(アキハヤタマオ命)
アキハヤタマオ命について
天湯津彦命(アマノユツヒコ命)の5世孫。アマノユツヒコ命はニニギ尊とともに天孫降臨した三十二神の1柱。安芸国造などの祖先とされる。
アキハヤタマオ命がこの土地に来たのは、由緒書きによると13代成務天皇のとき。成務天皇の実在は怪しいとされているので、これが西暦でいうと何年になるのかは不明。成務天皇はヤマトタケルが活躍する景行天皇と神宮皇后の夫の仲哀天皇の間の天皇。
祭神:飽速玉男命(アキハヤタマオ命)
アキハヤタマオ命について
天湯津彦命(アマノユツヒコ命)の5世孫。アマノユツヒコ命はニニギ尊とともに天孫降臨した三十二神の1柱。安芸国造などの祖先とされる。
アキハヤタマオ命がこの土地に来たのは、由緒書きによると13代成務天皇のとき。成務天皇の実在は怪しいとされているので、これが西暦でいうと何年になるのかは不明。成務天皇はヤマトタケルが活躍する景行天皇と神宮皇后の夫の仲哀天皇の間の天皇。
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物語・由来
創建は1700年以上とされる。厳島神社よりも創建は早いとされ、かつては安芸国だけでなく中国地方でもっとも格の高い神社だった。――が、厳島神社を平清盛が再建して以降は、厳島神社の摂社とまでされる始末。
嵯峨天皇の弘仁2年(811年)に名神とされる。
醍醐天皇の延喜5年(905年)の『延喜式神名帳』には名神大社とされる。名神は古来からある霊験の強いとされる神に対する称号。国家レベルの神様ですよとお墨付きをもらったということで、大乱などがあると祈祷があった。祈祷のときに奉幣を受けるのですが、この奉幣というのは天皇から納められるもの。そのくらい社格があったということです。
嵯峨天皇の弘仁2年(811年)に名神とされる。
醍醐天皇の延喜5年(905年)の『延喜式神名帳』には名神大社とされる。名神は古来からある霊験の強いとされる神に対する称号。国家レベルの神様ですよとお墨付きをもらったということで、大乱などがあると祈祷があった。祈祷のときに奉幣を受けるのですが、この奉幣というのは天皇から納められるもの。そのくらい社格があったということです。
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性格・能力
交通安全の神様とされ、「自動車」のお祓いが有名。まぁ、どこの神社でもやってるんですけどね。
神社や関連する土地
摂社
岩木神社
稲荷神社
岩木神社
稲荷神社
個人的コラム
1700年以上の歴史というのが何処までやら。とも思いますが、創建が相当に古いのは間違いない。厳島神社の創建が「593年」なので、それ以前となると、1700年が誇張でも1400年は間違いない。
岩木神社
速谷神社に行ってみると、これという古代の匂いはほとんどない。非常に綺麗。摂社を見ると、稲荷神社はどこでも見かけるものなのでパス。
問題は岩木神社。この岩木翁という神様が速谷神社が鎮座する以前にこの土地を守っていた神らしい。
天湯津彦命
速谷神社の祭神「アキハヤタマオ命」は天孫降臨にお供した天湯津彦命の5世孫。天湯津彦命は安芸津彦命と同一神、というかモデルは同一人物ではないか?とも思われます。安芸津彦は多家神社(埃宮)に祭られる神です。
想像できる物語は、まずこの地域に人々が住んでいた。その人達はそれぞれが土地の神を信仰していた(例えば、岩木翁)。そこに「アキ」に関わる名前の集団がやってきた。そこに争いがあったかは分からないが、「アキ」達は、祭祀という形で土地の人たちを従えた。彼らが農業技術集団だったかもしれない。一番分かりやすいのは海運集団。アキツヒコの「津」は港という意味だから。でもそれは住居が港だったという程度の意味かもしれない。あくまで想像です。その後、彼らは大和朝廷に組した。でも、大和朝廷の初期は共和国のようなゆるい枠組みだった。大和に従属したというよりは、協力関係というか協同組合にような関係だったと思います。
岩木神社
速谷神社に行ってみると、これという古代の匂いはほとんどない。非常に綺麗。摂社を見ると、稲荷神社はどこでも見かけるものなのでパス。
問題は岩木神社。この岩木翁という神様が速谷神社が鎮座する以前にこの土地を守っていた神らしい。
天湯津彦命
速谷神社の祭神「アキハヤタマオ命」は天孫降臨にお供した天湯津彦命の5世孫。天湯津彦命は安芸津彦命と同一神、というかモデルは同一人物ではないか?とも思われます。安芸津彦は多家神社(埃宮)に祭られる神です。
想像できる物語は、まずこの地域に人々が住んでいた。その人達はそれぞれが土地の神を信仰していた(例えば、岩木翁)。そこに「アキ」に関わる名前の集団がやってきた。そこに争いがあったかは分からないが、「アキ」達は、祭祀という形で土地の人たちを従えた。彼らが農業技術集団だったかもしれない。一番分かりやすいのは海運集団。アキツヒコの「津」は港という意味だから。でもそれは住居が港だったという程度の意味かもしれない。あくまで想像です。その後、彼らは大和朝廷に組した。でも、大和朝廷の初期は共和国のようなゆるい枠組みだった。大和に従属したというよりは、協力関係というか協同組合にような関係だったと思います。
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