沸流と温祚は十人の臣下と南へ(三国史記百済本紀)

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沸流と温祚は十人の臣下と南へ(三国史記百済本紀)

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原文

及朱蒙在北扶餘所生子來爲太子。沸流、温祚、恐爲太子所不容、遂與烏干、馬黎等十臣南行、百姓從之者多。遂至漢山、登負兒嶽、望可居之地、沸流欲居於海濱。十臣諫曰「惟此河南之地、北帶漢水、東據高岳、南望沃澤、西阻大海。其天險地利、難得之勢、作都於斯、不亦宜乎。」

現代語訳

朱蒙は以前住んでいた「北扶余」で生まれた子を太子(次の王の候補)としました。
注)つまり卒本扶余で妻を娶った生まれた子供は太子にしませんでした。


朱蒙の子供の沸流と温祚は腹違いの太子に排除されるのを恐れて、烏干や馬黎といった10人の臣下とともに南へと下りました。そこに多くの百姓がついて来ました。漢山(現在の韓国の広州)に到着しました。そして負兒嶽(プアク=北漢山という山?)に登って、その土地を見下ろしました。沸流は海浜で暮らしたいと思いました。10人の臣下は言いました。
「この河南には、北に漢水(漢江=河の名前)があり、東には高い丘があり、南は豊かな土地があり、西には海があります。天から与えられた地の利があり、なかなか無いものです。ここに都をつくるとよろしいでしょう」
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解説

朱蒙は以前住んでいた北扶余で作った子供を太子として迎え入れ、先代王の娘の間に出来た沸流と温祚を蔑ろにしました。蔑ろしたとは書いてないのですが、まぁ、そういうことになるのかな、と。ちなみに北扶余から連れた来た太子は後に瑠璃王となり、高句麗本紀によれば高句麗の二代目王となります。

常識的に考えると、先代王の娘の子に王を継がせるのが筋だろうと思うのです。なにせ北扶余で作った子は、先代王とは縁もゆかりもありません。これでは朱蒙の王家乗っ取りです。それも朱蒙に子供が居ないなら解るのですが、先代王の娘との間に二人も男の子供がいるわけで、なぜ北扶余から連れて来たのやら。

また瑠璃王は高句麗本紀では二代目王ですが、三国志魏書高句麗伝では朱蒙→如栗(ロダツ)→如栗(ルリ=瑠璃)と三代目となっています。如栗は朱蒙の息子で瑠璃は朱蒙の孫とされます。果たしてどういう意味があるか? 単なる欠落か? それともこれらは単なる伝承だったのか?
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