高句麗の建国(三国史記・高句麗本紀)

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高句麗の建国(三国史記・高句麗本紀)

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現代語訳

觀其土壤肥美、山河險固、遂欲都焉。而未遑作宮室、但結廬於沸流水上居之。国號高句麗、因以高爲氏(一云、朱蒙至卒本扶餘。王無子、見朱蒙知非常人、以其女妻之。王薨、朱蒙嗣位)時朱蒙年二十二歳、是漢孝元帝建昭二年。新羅始祖赫居世二十一年甲申歳也。

現代語訳

三国史記・高句麗本紀
麻衣・衲衣・水藻衣(三国史記・高句麗本紀)
その土地を見るととても肥沃で、山河は堅固で、都にしたいと朱蒙は考えました。
しかし宮殿を造る時間が無くて作れなかった。
そこで沸流水のほとりに小屋を立てて住むことにしました。
国の名前を高句麗として、高を氏姓としました。
別伝によると…朱蒙は卒本扶餘(=国名)に到着しました。そこの王には子供が居ませんでした。朱蒙を見た所、常人ではないのが分かり、娘を朱蒙の妻にしました。王が亡くなると、朱蒙が王になりました。


朱蒙が22歳。
前漢の孝元帝(在位期間紀元前48年〜33年)の建昭二年(=紀元前37年)です。
新羅の始祖の赫居世の21年の甲申の年です。
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解説

甲申の年について
中国の孝元帝・建昭二年とあることを見て、「あぁ、高句麗って歴史のある国なんだなぁ」と考えるのは早い。というのもこの文章が載っている三国史記は12世紀の成立の書物で、高句麗が滅び、その後の高麗が朝鮮半島を支配したときに書かれています。つまり朱蒙の建国の物語は三国史記の成立から1200年近く前の話です。「物語」は神話として価値がありますが、「暦年」は改ざん・ねつ造したと考えた方が良いでしょう。

高麗は名前が高句麗に似ているように「高句麗の後の国」という存在です。そして「儒教史観」というのもあります。儒教史観は「古い物ほど偉い」という考えで、ハッキリ言えば、三国史記は「高麗は高句麗や新羅の時代から考えると、ほんとに長い歴史があるよ〜」と主張するのも目的だったのです(メインは高麗の正当性)。そういう文化と政治の背景を考えると、この「孝元帝・建昭二年」は尚更、眉唾。

また赫居世二十一年も同様の理由で眉唾。
ちなみに後のページで決定的な不具合が出現します。
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