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崇神天皇(二)崇神天皇の皇后と妃とその子供たち(日本書紀)
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元年春正月壬午朔甲午、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。二月辛亥朔丙寅、立御間城姫爲皇后。先是、后生活目入彦五十狹茅天皇・彦五十狹茅命・国方姫命・千々衝倭姫命・倭彦命・五十日鶴彦命。又妃、紀伊国荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛一云、大海宿禰女八坂振天某邊、生豊城入彦命・豊鍬入姫命。次妃尾張大海媛、生八坂入彦命・淳名城入姫命・十市瓊入姫命。是年也、太歲甲申。
現代語訳
崇神天皇即位元年1月13日。皇太子は天皇に即位しました。皇后(=開化天皇の皇后の伊香色謎命)を尊び、皇太后としました。2月16日。御間城姫(ミマキヒメ)を皇后としました。これより先に…(皇后になる以前に)、后は活目入彦五十狹茅天皇(イクメイリヒコイサチノスメラミコト=垂仁天皇)・彦五十狹茅命(ヒコイサチノミコト)・国方姫命(クニカタヒメノミコト)・千々衝倭姫命(チチツクヤマトヒメノミコト)・倭彦命(ヤマトヒコノミコト)・五十日鶴彦命(イカツルヒコノミコト)を生みました。
また妃の紀伊国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクハシヒメ)
が、豊城入彦命(トヨキイリビコノミコト)・豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)を生みました。
次の妃の尾張大海媛(オワリノオオアマヒメ)は八坂入彦命(ヤサカノヒリヒコノミコト)・淳名城入姫命(ヌナキノイリヒメノミコト)・十市瓊入姫命(トオチニイリヒメノミコト)を生みました。この年は太歲甲申でした。
また妃の紀伊国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクハシヒメ)
ある書によると大海宿禰(オオアマノスクネ)の娘の八坂振天某邊(ヤサカフルアマイロベ)とも
が、豊城入彦命(トヨキイリビコノミコト)・豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)を生みました。
次の妃の尾張大海媛(オワリノオオアマヒメ)は八坂入彦命(ヤサカノヒリヒコノミコト)・淳名城入姫命(ヌナキノイリヒメノミコト)・十市瓊入姫命(トオチニイリヒメノミコト)を生みました。この年は太歲甲申でした。
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- Page1 崇神天皇(一) 崇神天皇の出自と性格(日本書紀)
- Page2 崇神天皇(二)崇神天皇の皇后と妃とその子供たち(日本書紀)
- Page3 崇神天皇(三)崇神天皇の詔(日本書紀)
- Page4 崇神天皇(四)疫病で国民の半数が死亡(日本書紀)
- Page5 崇神天皇(五)弱音と儀式と大物主(日本書紀)
- Page6 崇神天皇(六)大物主の夢のお告げ(日本書紀)
- Page7 崇神天皇(七)大田々根子命を探し出す(日本書紀)
- Page8 崇神天皇(八)天社・国社・神地・神戸を定める(日本書紀)
- Page9 崇神天皇(九)味酒三輪の殿の 朝門にも出でて行かな三輪の殿門を(日本書紀)
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