高麗の大乱・細群と麁群の戦い・香岡上王の死

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欽明天皇(三十八)高麗の大乱・細群と麁群の戦い・香岡上王の死

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現代語訳

この年(即位6年)に高麗(コマ)は大いに乱れて、誅殺されるものがたくさんいました。
百済本記によると、12月甲午に高麗の国の細群(サイグン)と麁群とが宮門(ミカド)で戦争しました。太鼓を打って戦闘しました。細群は破れましたが軍隊を解散しないで三日経ちました。すべての細群の子孫をとらえて殺しました。戊戌(ツチノエイヌノヒ)に狛国(コマノクニ)の香岡上王薨(ヌタノスオリコケ)が無くなりました。
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解説

細群は小夫人(高麗王の妾?)の舅(妾の父)の一団で、麁群は中夫人(高麗王の妾?)の舅(妾の父)の一団。これが争って戦争をして、麁群が勝ち、細群の人たちは全員殺されました。

そもそも「高麗」を「コマ」と読むのは、高麗が「狛族」という中国北方民族だからです。日本書紀では「高麗」と書くのですが、百済本記の抜粋によれば「狛国」と書いていたということになります。
香岡上王
中国の歴史書である三国史記には欽明天皇即位6年にあたる年の3月に「王が亡くなった」と書いてあります。日本書紀では即位6年12月の出来事ですから、月がぜんぜん違いますが。
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原文

是歲、高麗大亂、被誅殺者衆。百濟本記云「十二月甲午、高麗國細群與麁群、戰于宮門、伐鼓戰鬪。細群敗不解兵三日、盡捕誅細群子孫。戊戌、狛國香岡上王薨也。」
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