皇極天皇(十)蘇我氏の墓と八佾之儛

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皇極天皇(十)蘇我氏の墓と八佾之儛

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現代語訳

(即位1年)この年、蘇我大臣蝦夷は自分の祖先を祀る廟を葛城(カヅラキ)の高宮に立てて、八佾之儛(ヤツラノマイ)をしました。歌を作って言いました。
大和の 忍(オシ)の広瀬を 渡らむと 足結(アヨイ)手作(タヅク)り 腰作(コシヅク)らふも
歌の役大和の忍海(オシミ)の曽我川の広瀬を渡ろうと、足の紐を結び、腰の帯を締めて、身支度をしよう

また、多くの国にいる民と合わせて180部民を起こして、前もって双墓(ナラビノハカ)を今来(イマキ=吉野郡大淀町今木と御所市東南・古瀬・水泥の境界)に作りました。一つは大陵(オオミサザキ)といいます。大臣(=曽我蝦夷)の墓としました。一つは小陵(コミサザキ)といいます。入鹿臣の墓としました。願わくば、死んで後に人が苦労しないようにと。さらにすべての上宮の乳部(ミブ)の民を集めて
乳部は美父(ミブ)といいます。

塋垗所(ハカドコロ)に使役しました。
上宮大娘姫王(カミツミヤノイラツメノヒメミコ=聖徳太子の娘)は憤慨して嘆いて言いました。
「曽我臣はもっぱら国政をほしいままにして、無礼な行いが多い。天に二つの日はなく、国に二つの王はいない。どうして心のままに、ことごとく封じる民を使役するのか!」
これで恨みを結び、ついに滅ぼされました。
この年、太歳壬寅。
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解説

八佾之儛(ヤツラノマイ)
王だけが舞って良いとされるもので、これを舞わせるということは蘇我蝦夷が「自分が王だ!」と主張することになるものです。しかし、この八佾之儛(ヤツラノマイ)というものは「論語」に出てくる言葉で、果たして実際に日本に「天皇だけに許された舞」があったのか、それを八佾之儛(ヤツラノマイ)と呼んでいたのかは、よく分からない。ちなみに論語でも「王を蔑ろにする不忠の証」として八佾之儛(ヤツラノマイ)が登場します。

この日本書紀が書かれたのが720年。私たちは、この後、蘇我氏が不忠を理由に滅ぼされることを知っているので、八佾之儛(ヤツラノマイ)のところを見ても、「あぁ、そういうことか」と思ってしまいがちです。でも、この「八佾之儛(ヤツラノマイ)」って多分、「蘇我氏が悪い」というストーリーの中で、創作されたと考えた方が自然だと思うのです。

いや、かといって蘇我氏が国政を蔑ろにしていない、とか、不忠ではなかった、ということではありません。そこは分かりません。ただ、この八佾之儛(ヤツラノマイ)は論語から拝借したのだろうということです。

それにこのページで蘇我氏が歌ったとされる歌も一般には「川を渡って大和を攻め滅ぼすぞ!」という意味に取ることが多いのですが、記紀の「歌謡」の多くは本来は農民や漁民の歌です。そう考えるとこの歌も、川で漁を始める時に歌ったとも、川を越えて交易をしようとする民の歌謡とも取れるのです。
上宮
上宮は用明天皇が息子の聖徳太子を自分の宮の南に住まわせたことから来ている言葉でう。上宮で「聖徳太子」を意味しています。よって、蘇我氏は聖徳太子の部民を勝手にこき使ったということになります。
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原文

是歲、蘇我大臣蝦夷、立己祖廟於葛城高宮、而爲八佾之儛。遂作歌曰、
野麻騰能、飫斯能毗稜栖鳴、倭柁羅務騰、阿庸比陀豆矩梨、舉始豆矩羅符母。
又盡發舉國之民、幷百八十部曲、預造雙墓於今來。一曰大陵、爲大臣墓。一曰小陵、爲入鹿臣墓。望死之後、勿使勞人。更悉聚上宮乳部之民、(乳部、此云美父)。役使塋垗所。於是、上宮大娘姬王、發憤而歎曰、蘇我臣、專擅國政、多行無禮。天無二日、國無二王。何由任意悉役封民。自茲結恨、遂取倶亡。是年也、太歲壬寅。
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