天武天皇(二十二)息長の戦い・鳥籠山の戦い・安河の戦い

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天武天皇(二十二)息長の戦い・鳥籠山の戦い・安河の戦い

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現代語訳

(即位元年)7月7日。男依(オヨリ)たちは近江朝廷の軍隊と息長(オキナガ=滋賀県坂田郡米原町醒井?)の横河で戦い、撃破しました。その将軍の境部連薬(サカイベノムラジクスリ)を斬り殺しました。
7月9日。男依(オヨリ)たちは近江朝廷の秦友足(ハタノトモタリ)を鳥籠山(トコノヤマ=滋賀県坂田郡・犬上郡のあたり?)で征伐して斬り殺しました。
この日に東道将軍(ウミツミチノイクサノキミ)の紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)たちは、倭京(ヤマトノミヤコ)の将軍の大伴連吹負(オオトモノムラジフケイ)が近江王朝に敗れたことを聞いて、軍隊を分けて、置始連菟(オキソメノムラジウサギ)を派遣して、1000騎あまりを率いて、速やかに倭京に走らせました。
7月13日。男依(オヨリ)たちは安河(ヤスカワ=野州川)の浜(ホトリ)で戦い、大きく撃破しました。社戸臣大口(コソヘノオミオオクチ)・土師連千嶋(ハジノムラジチシマ)を捕えました。
7月17日。栗太(クルモト)の軍隊を征伐して追撃ました。
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解説

境部連薬=坂合部連薬
実はすでに登場しています。そこでは有間皇子の謀反に関わり、「尾張国へ流されて」います。

このページで坂合部連薬が登場するということは、尾張国に流されはしたものの殺されず、また罪も許されたのでしょう。関与が小さく、罪が小さいと判断されたのかもしれません。

有間皇子は孝徳天皇の息子で、孝徳天皇と中大兄皇子(=のちの天智天皇)は、敵対し、孝徳天皇は実質、中大兄皇子に追い詰められ、憤死しました。有間皇子を支持していた坂合部連薬は、ここでは中大兄皇子の息子である大友皇子側として登場しています。

まぁ、現代の我々は壬申の乱の結末を知っていますから、坂合部連薬が「どうして大友皇子の味方なのか? 中大兄皇子に島流しにあったのならば、大海人皇子側につけばいいのに」と思ってしまいますが、この時点では、あくまで近江朝廷こそが、正当な本流なので、しょうがないってものです。
吹負の敗北
これは7月4日に大野君果安に乃楽山で敗れたことを指しています。敗れはしたものの、なんとか脱出して吹負は無事なんですけどね。
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原文

丙申、男依等、與近江軍戰息長横河、破之、斬其將境部連藥。戊戌、男依等、討近江將秦友足於鳥籠山、斬之。是日、東道將軍紀臣阿閉麻呂等、聞倭京將軍大伴連吹負爲近江所敗、則分軍、以遣置始連菟、率千餘騎而急馳倭京。壬寅、男依等、戰于安河濱、大破。則獲社戸臣大口・土師連千嶋。丙午、討栗太軍追之。
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