持統天皇(二)臨朝称制・大津皇子の謀反と死、その人物像

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持統天皇(二)臨朝称制・大津皇子の謀反と死、その人物像

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現代語訳

朱鳥元年(アカミトリノハジメノトシ)の9月9日。天渟中原瀛真人天皇(アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト=天武天皇)が崩御しました。皇后は、臨朝称制(ミカドマツリゴトキコシメス=即位せずに実務を行う)しました。

冬10月2日。皇子大津(=大津皇子)は謀反しようとして発覚しました。皇子大津を逮捕して、皇子大津のために騙された直広肆の八口朝臣音橿(シャクチノアソミオトカシ)・小山下の壱伎連博徳(ユキノムラジハカトコ)と大舍人の中臣朝臣臣麻呂(ナカトミノアソミオミマロ)・巨勢朝臣多益須(コセノアソミタヤス)・新羅沙門(=新羅の僧)の行心、帳内(トネリ)の礪杵道作(トキノミチツクリ)たち30人余りを捕らえました。
10月3日。皇子大津を訳語田(オサタ=磐余の自宅)の家で殺されました。その時、年齢は24歳。妃の皇女山辺(=山辺皇女)は髪を振り乱して、裸足で、走って行き、殉死しました。見た人は皆、嘆きました。皇子大津は、天渟中原瀛真人天皇(=天武天皇)の第三子です。容姿は優れていて、言葉は優れていて朗らかでした。天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケノスメラミコト=天智天皇)に愛されていました。年長となり、弁舌素晴らしく、才学がありました。文筆を愛しました。詩賦之興(シフノオコリ=詩や文の始まり)は大津皇子から始まったと言います。
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解説

大津皇子
大津皇子は持統天皇によって「実質」殺されたと言われています。それにしては大津皇子の人間性を褒めちぎっていますよね。

日本人は祟りを恐れます。だから日本人は基本的に死者を冒涜しません。だから死んだ人は悪い人でも、褒めます。死んだからです。大津皇子が本当は悪人で謀反したのか、それとも嵌められて殺された善人なのかは、分かりません。ただ日本の文化としては死者はケナさ無いってことです。
●無実で死んでいった人はなおのこと悪く言いません。祟りが怖いからです。
●そう考えると大津皇子は無実の罪を着せられて死んだと考えた方が自然じゃないかと思いますね。
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原文

朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱制。冬十月戊辰朔己巳、皇子大津謀反發覺、逮捕皇子大津、幷捕爲皇子大津所詿誤、直廣肆八口朝臣音橿・小山下壹伎連博德與大舍人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅沙門行心及帳內礪杵道作等、卅餘人。庚午、賜死皇子大津於譯語田舍、時年廿四。妃皇女山邊、被髮徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷。皇子大津、天渟中原瀛眞人天皇第三子也、容止墻岸、音辭俊朗、爲天命開別天皇所愛、及長辨有才學、尤愛文筆、詩賦之興、自大津始也。
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