手痛い矢を受けるイツセ命

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手痛い矢を受けるイツセ命

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原文

ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負ひたまひき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賎しき奴が痛手を負ひぬ。今より行き廻りて背に日を負ひて撃たむ」と期りて、南の方より廻り幸でましし時、血沼海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。故、血沼海といふ。

現代語訳

登美毘古(トミビコナガスネヒコ)と戦ったとき、
五瀬命(イツセ命)は手に登美毘古の痛矢串(イタヤグシ=矢を受けた傷)を負いました。

傷を受けたとき、五瀬命(イツセ命)は言いました。

「わたしは日の神の皇子なのに
日に向かって戦ってしまった。
これは良くなかった。
だから、卑しい奴に痛手を負わされた。
これからは回り道をして、太陽を背にして戦おう」
と誓い、南から回って血沼海に到着して
その手の血を洗いました。

それで「血沼海(チヌノウミ)」と呼ぶようになりました。
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解説

地名+ヒコでその土地の首長
トミ(登美)が市の名前なら、ナガスネは●●市の区名といったところでしょうか。
東を向いて戦う
東を向いて戦うのは駄目、なにせ太陽を象徴する「アマテラス」の子孫ですから。イツセという名前は古事記伝では「厳稲(イツシネ)」とされ、食料・穀物に関わる神とされます。イワレビコ以外の兄弟も同じく稲に関わる名前――そんなこと言ったら、天皇・皇子はほとんど稲穂に関わる名前なんですが――となっています。

しかし太陽を背にして戦うのは、どうかんがえても無理。だってそもそも「神武東征」ですからね、東に向かって進む限りは、太陽に向かって行くしかない。あとは夕日を背にするくらいのもの。

大和政権が成立したのは4世紀前後とされ、この神武東征は九州にあったであろう(あったかもしれない)大和政権の前身が、大和に移行したという経緯を物語にした――という見方が一般的です。これまで出てきた「盾津」「血沼海」の地名説話は物語の成立より古いと考えるのが適切。となると、地名に沿って物語が出来たということになります。本当??
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