吾瓮海人烏摩呂と磯鹿海人の草

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神功皇后(八)吾瓮海人烏摩呂と磯鹿海人の草

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原文

秋九月庚午朔己卯、令諸国、集船舶練兵甲、時軍卒難集、皇后曰「必神心焉。」則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚。於是、使吾瓮海人烏摩呂、出於西海令察有国耶、還曰「国不見也。」又遣磯鹿海人名草而令視、數日還之曰「西北有山、帶雲横絚。蓋有国乎。」爰卜吉日而臨發、有日。時皇后親執斧鉞、令三軍曰「金鼓無節・旌旗錯亂、則士卒不整。貪財多欲・懷私內顧、必爲敵所虜。其敵少而勿輕、敵强而無屈。則姧暴勿聽、自服勿殺。遂戰勝者必有賞、背走者自有罪。」

現代語訳

仲哀天皇即位9年)秋9月10日。諸国に命令して、船舶を集めて兵甲(ツワモノ=武器・兵士)を錬成した。そのときに軍卒(イクサビトトドモ)が集まりにくかった。皇后は言いました。
「間違いなく神の意志だ」
すぐに大三輪社(オオミワノヤシロ)を立てて、刀矛(タチホコ)を奉りました。軍衆(イクサビトドモ)は自然と集まりました。
吾瓮海人烏摩呂(アヘノアマオマロ)という人物を派遣して西の海に出て、国があるかと視察させました。帰ってきて言いました。
「国は見えませんでした」
又、磯鹿海人(シカノアマ)の名を草(クサ)という人物を派遣して視察させました。日数が経って帰ってきて言いました、
「西北に山があります。帯雲(クモイ=太い雲)が横になっていました。国があるかと思われます」
そこで吉日を占って、出発する日を決めました。そのとき皇后は自ら斧・鉞(マサカリ)を取って、三軍(ミタムラノイクサ)に命令して言いました。
「金鼓節無(カネツヅミワキダメナシ=鐘を鳴らしても節度が無くなること)に、旌旗(ハタ)が錯乱したら、士卒(イクサノヒトドモ)は整わない。財(タカラ)を貪り、多くを欲して、私欲ばかりを思い、自分たちのことばかりを考えれば、全てを敵(アタ)に取られてしまうだろう。敵が少なくてもあなどってはいけない。敵が多くても怖気付いてはいけない。(婦女に)暴力を振るい犯してはいけない。自分から服従してきたおのは殺してはいけない。戦いに勝てば、必ず賞(タマイモノ)がある。背を見せて走り逃げれば、罪がある」
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解説

神に武器を奉納
神に武器を奉納するのは垂仁天皇の時代からです。

もともと神の意志が戦争に関わっていましたが、ここで戦争の成否を神がガッツリと握るようになりました。
二人の海人の使者
吾瓮海人烏摩呂(アヘノアマオマロ)のアヘは地名です。阿閉島ではないかと思われます。阿閉島は「仲哀天皇(七)筑紫の岡県主の祖先の熊鰐」に登場している島での下関の関門海峡の島です。

次の磯鹿海人(シカノアマ)は奴国の金印で有名な志賀島の海人のことです。草は人物名です。

どちらの海人も朝鮮への進出に一役買ったのでしょう。日本人がこれ以前には朝鮮半島を知らなかった、ということは有り得ません。魏志倭人伝には朝鮮南部には倭人が住んでいたとしています。もちろん倭人と日本人は完全な同一民族とは言えないかもしれませんが、邪馬台国は倭人の国であり、邪馬台国の影響が九州に見られる以上は「朝鮮半島を知らなかった」ということは有り得ません。
物語の真意は?
ここでの「西に国があるかを確認させた」というお話は、仲哀天皇が丘に登って西を見たけども、海しかなくて、国なんてない」という物語と呼応しています。

志賀島の海人が数日掛けて遠出しないと見えないようなところに朝鮮半島があったのだから、丘に登って見たくらいでは国は見えるわけない。よって仲哀天皇はポンコツじゃなくて、運が悪かったということであり、同時に神も正しいということです。
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