髪を海水ですすいだら二つに分かれる

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神功皇后(七)髪を海水ですすいだら二つに分かれる

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原文

皇后還詣橿日浦、解髮臨海曰「吾、被神祗之教、頼皇祖之靈、浮渉滄海、躬欲西征。是以、令頭滌海水、若有驗者、髮自分爲兩。」卽入海洗之、髮自分也。皇后、便結分髮而爲髻、因以謂群臣曰「夫興師動衆、国之大事。安危成敗、必在於斯。今有所征伐、以事付群臣。若事不成者、罪有於群臣、是甚傷焉。吾婦女之、加以不肖、然暫假男貌、强起雄略。上蒙神祗之靈、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。若事就者群臣共有功、事不就者吾獨有罪、既有此意、其共議之。」群臣皆曰「皇后、爲天下計所以安宗廟社稷、且罪不及于臣下。頓首奉詔。」
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現代語訳

皇后は帰って橿日浦に詣でて、髪を解いて海に臨んで言いました。
「神祇の教えを受けて、皇祖(オオミオヤ)の霊(ミタマノフユ)を頼って、滄海(アオキウナハラ)を渡って、自ら西の国を討とうと思う。そこで頭を海水(ウシオ)で濯ぎます。もし、験(シルシ=兆候)があるならば髪は自然と二つに分かれる」
それで海に入って洗うと、髪は自然と別れました。皇后はすぐに髪を分けて結って、鬟(ミズラ)にしました。それで群臣(マヘツノキミタチ)に語りました。
「軍を起こして、衆(モロモロ)を動かすのは国の大事(オオキコト)だ。安さ危うさもあって、敗戦することもある。今、征伐する土地がある。群臣(マヘツノキミタチ)に授けよう。もしも事がならなかった場合、罪は群臣にある。しかし、これはとても傷が深い。わたしは婦女でまた幼い。しかし、しばらく男の姿を借りて、強く雄々しく謀略を起こそう。上は神祇の霊威をかぶり、下は群臣の助けを借り、兵甲(ツワモノ=武器・兵士)を興し、高い波を渡り、艫船(フネ)を整えて、財土(タカラノクニ)を求めよう。もし、事が成ったら、群臣はと共に功があったということにる。事が成らなかったら、わたしが一人に罪がある。すでに、この決意がある。さぁ、共に話し合おう」
群臣は皆、言いました。
「皇后、天下のために宗廟社稷(クニイエ=国家)は安らかになるよう計ります。また、罪は臣下にも及ばない。慎み、詔(ミコトノリ=天皇の命令)を承ります」
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解説

責任感のあるボス・神功皇后
女性が男性の髪型である「鬟(ミズラ)」を結うというくだりは、そういえばアマテラススサノオを迎撃するときにもありました。つまり、女性が戦いのときには男性の髪型をするというのが、古代ではよくあることだったのかもしれません。

神功皇后は男装をして、そして「朝鮮征伐が失敗したら、それは臣下ではなく全て、私の責任」としました。なんというボスなんでしょうか。

仲哀天皇が神の意志に背いて死んだとして、その神の意志を継いだのが神功皇后ということは、神功皇后は神の使徒であり、同時に信仰の薄い夫に代わって「偉業」をなしとげた、いや、言い方を変えると、夫の偉業を掠め取ったとでも言われかねないのですが、いや、神功皇后は理想的なボスであり、その器があったと考えたほうがいいのではないでしょうか?
邪馬台国について
九州には山門という地名が残っていて「ヤマト」と読みます。これが邪馬台国ではないか?という説は結構根強いです。しかし「ヤマト」という言葉は山に囲まれたという意味で、決して特別な名前ではありません。それでも北九州に邪馬台国があったか、もしくはそれに近いような強い文化があったのは間違いありません。

卑弥呼に関する記述は古事記・日本書紀編纂のときにはすでに日本人は読んでいた筈です。これは「神功皇后は史書の女王のこと」という記述があることから間違いありません。しかし神功皇后は4世紀の人物で、卑弥呼は3世紀の中頃ですから、同一人物であろうことはありません。でも、神功皇后の成立に卑弥呼が関わっていたというなら、それほど不思議はないでしょう。

大和朝廷は代々男性が継いでいた。実際には違っていても、男性の記述ばかりですから、少なくとも男性血統が正当という意識があった。しかし九州は違う。九州征伐には「女性首領」が頻繁に出て来ます。九州では女性が首領なのが当たり前だった。男性では集団がまとまらない。このそもそも理由に卑弥呼があったのではないか?と思うのです。

卑弥呼・邪馬台国時代に発展したが、男の王が立つとまた戦乱になったと魏志倭人伝にあります。そもそも女性には出産という霊威を感じる特性があり、これが農耕民族には大事だったから女王が生まれやすかったのかもしれませんが、やっぱり卑弥呼の時代の「良い思い出」が九州…特に北部にあったのではないかと思います。だから景行天皇以降の九州征伐には女性首領が多い。

その下地があり、神功皇后という女王が担ぎ出された。担ぎ出したのは「仲哀天皇(十二)異伝によると…自ら熊襲を撃ちましたが、賊の矢に当たって崩御しました」で登場する4人の臣下でしょう。女王だから平定もしやすく、また大和朝廷への参加者も増えた。また朝鮮征伐への兵も集まりやすかった。
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