罰としての黥。即位と皇妃とその子息子女

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履中天皇(六)罰としての黥。即位と皇妃とその子息子女

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原文

元年春二月壬午朔、皇太子卽位於磐余稚櫻宮。夏四月辛巳朔丁酉、召阿雲連濱子、詔之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾国家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」卽日黥之、因此、時人曰阿曇目。亦、免從濱子野嶋海人等之罪、役於倭蔣代屯倉。秋七月己酉朔壬子、立葦田宿禰之女黑媛、爲皇妃、妃生磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子・靑海皇女。一日、飯豊皇女。次妃幡梭皇女、生中磯皇女。是年也、太歲庚子。

現代語訳

即位元年2月1日。皇太子(ヒツギノミコ=ここでは去来穗別皇子=履中天皇)は磐余稚桜宮(イワレノワカサクラノミヤ)で即位しました。

夏4月17日。阿曇連浜子(アズミノムラジハマコ)を呼び寄せて、詔(ミコトノリ)して言いました。
「お前、仲皇子(ナカツミコ)とともに反逆することを謀(ハカ=話し合って決めること)り、国家(クニ)を傾けようとした。その罪は死に値する。しかし大きな恩があるので死は免じ、墨(ヒタヒキザムツミ=顔の刺青)を科すことにする」
その日に黥(メサキキザム=目に刺青をすること)しました。
これによってその時代の人は阿曇目(アズミメ)といいます。また、浜子(ハマコ)に従っていた野嶋の海人たちの罪を許して、倭の蔣代屯倉(コモシロノミヤケ=所在不明)に使役させました。

秋7月4日。葦田宿禰(アシタノスクネ)の娘の黒媛(クロヒメ)を立てて、皇妃(ミメ)としました。妃は磐坂市辺押羽皇子(イワサカイチノヘノオシハノミコ)、御馬皇子(ミマノミコ)、青海皇女(アオミノヒメミコ)
ある伝によると、飯豊皇女(イイドヨノヒメミコ)といいます。

を生みました。
次に幡梭皇女(ハタビノヒメミコ)が中磯皇女(ナカシノヒメミコ)を生みました。この年、太歲庚子でした。
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解説

阿曇連の目
海人族は顔に刺青をしていました。これは別に、天皇からの罰ではなく、もともとそういう風習です。魏志倭人伝にも書かれていますし、これ以前の記述にも「顔の刺青」は登場しています。
日本には米作を基礎とした大和朝廷の文化とは別に、海人の文化と狩猟民族(蝦夷と朝鮮)の文化があり、それが混ざり、衝突と融和を繰り返して現在の日本の文化が出来たのだと思われます。
その中で、海人族の奇妙な風習を大和の文化がどう捉えたか?というのが「罰としての阿曇目」という「噂」というか伝承だったのではないかと思います。
阿曇連は仁徳天皇の時代においては体制派だった。天皇の味方だった。しかし仲皇子の味方をした。これは阿曇連が反逆したというよりは、履中天皇が反体制派だったと考えたほうがシックリ来ます。履中天皇は弟の反正天皇の策略により天皇になった。阿曇連を罰しないといけないが、それは出来ない。なぜなら阿曇連は有力者だった。簡単に罰することは出来ない。おそらくほぼ罰せられなかったんじゃないかと。
飯豊皇女
イイトヨ、ではなく「イイドヨ」と読みます。これは和名抄などの他の書物から。この「イイドヨ」は「ふくろう」のこと。木菟宿禰(ツクノスクネ)の「ツク」も「ふくろう」というか「ミミズク」の「ツク」じゃないかと思うんだけど。
ちなみに…仁徳天皇が生まれた時に、産屋に飛び込んできた「鳥」が「ふくろう(=ツク)。同日に生まれた武内宿禰の子の産屋に飛び込んできたのが「鷦鷯(サザキ=ミソサザイのこと)」。それを吉兆と捉えて、名前を取り替えて、仁徳天皇を「大鷦鷯」、武内宿禰の子を「木菟宿禰」とした、という経緯があります。

この飯豊皇女は、清寧天皇の後、後継のいなくなったため、顕宗天皇・仁賢天皇に引き継がれるまでの間、天皇となった通称「飯豊天皇」ではないか?とされる人物です。ただ飯豊天皇は市辺押歯王(=磐坂市辺押羽皇子)の娘と書かれていて、同名の別人(叔母と姪)とも、いろいろと言われています。
葦田宿禰の娘の黒媛
仲皇子と履中天皇の戦争の根本はそもそも、黒媛という女の取り合いなんですよね。でも、この黒媛は羽田矢代宿禰(ハタノヤシロノスクネ)の娘の黒媛。皇妃となったのは葦田宿禰(アシタノスクネ)の娘の黒媛。同一人物か、同名の別人か。
黒媛って名前って仁徳天皇が淡路島へと会いに行ったのも黒媛だし、継体天皇の妃の一人も黒比売で、おそらく珍しい名前じゃないので同名の別人ってのは何ら不思議じゃないです。
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