物部菟代宿禰・目連・大斧手による伊勢の朝日郎の征伐

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雄略天皇(五十二)物部菟代宿禰・目連・大斧手による伊勢の朝日郎の征伐

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原文

十八年秋八月己亥朔戊申、遣物部菟代宿禰・物部目連、以伐伊勢朝日郎。朝日郎、聞官軍至、卽逆戰於伊賀靑墓、自矜能射、謂官軍曰「朝日郎手、誰人可中也。」其所發箭、穿二重甲、官軍皆懼。菟代宿禰、不敢進擊、相持二日一夜。於是、物部目連、自執大刀、使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中、倶進。朝日郎、乃遙見而射穿大斧手楯二重甲、幷入身肉一寸。大斧手、以楯翳物部目連、目連卽獲朝日郎斬之。

現代語訳

即位18年秋8月10日。物部菟代宿禰(モノノベノウシロノスクネ)・物部目連(モノノベノメノムラジ)を派遣して伊勢の朝日郎(アサケノイラツコ)を征伐させました。朝日郎は官軍(ミイクサ)が到着すると聞いて、すぐに伊賀の青墓(アオハカ)で迎え撃って戦いました。自ら弓を射ることができるのを矜持として、官軍に言いました。
「朝日郎の相手は誰がやるのか?」
その放った矢は二重にした鎧を通り、官軍は皆、怖じ気づきました。菟代宿禰は前に出て撃ちませんでした。相対して二日と一夜。物部目連は自ら大刀(タチ)を取って、筑紫の聞(キク=豊前国企救郡=現在の福岡県北九州市小倉区と門司区)の物部大斧手(モノノベオオノテ)と共に、楯(タテ)を取って、軍の中へと叫び、進みました。朝日郎は遥か遠くから見て、大斧手の楯と二重の鎧を弓で射て貫きました。その(大斧手の)身の肉に矢が一寸(ヒトキ)入りました。大斧手は楯を持って物部目連を覆い隠し遮りました。目連は朝日郎を捕らえて斬り殺しました。
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解説

墓について
古代の日本では戦争の前に、古墳を作って人を集めて、そのまま兵士にするというのがよくあって、古代では「墓」=「戦争」というイメージがあるんじゃないかと思います。だから「青墓で戦った」という表現があって、これは実際に墓を作って兵士を集めたという「史実」なのかもしれませんが、そういう慣用句なのかもしれません。

ちなみにこの青墓は三重県上野市佐那具の御墓山古墳ではないかと言われています。
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