朝夕の御膳を盛る清器と土師連の祖先の吾笥

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雄略天皇(五十一)朝夕の御膳を盛る清器と土師連の祖先の吾笥

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原文

十七年春三月丁丑朔戊寅、詔土師連等「使進應盛朝夕御膳淸器者。」於是、土師連祖吾笥、仍進攝津国來狹々村・山背国內村俯見村・伊勢国藤形村・及丹波・但馬・因幡私民部、名曰贄土師部

現代語訳

即位17年。春3月2日。土師連(ハジノムラジ)たちに詔(ミコトノリ)して
「朝夕の御膳(ミツケモノ)を盛る清器(キヨキウツワ)を献上しろ」
と言いました。それで土師連の祖先の吾笥(アケ)は摂津国の来狹々村(クササノムラ=摂津国河辺郡玖左佐村=現在の大阪府豊能郡)・山背国の内村(ウチノムラ=山城国綴喜郡有智郷=現在の京都府綴喜郡八幡町内里)・俯見村(フシミノムラ=山城国紀伊郡伏見村=現在の京都市伏見区)・伊勢国の藤形村(フジカタノムラ=現在の三重県津市藤方?)・と丹波(タニハ)・但馬(タジマ)・因幡(イナバ)の私民部(ワタクシノカキベ=土師連の個人的な部民)を献上しました。、名付けて贄土師部(ニヘノハジベ=供物の器を作る部)と言います。
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解説

土師について
土師は出雲の氏族で「土器」を作る専門家。土器といっても器だけでなく、埴輪も作っていて「土師」というと、どちらかというと埴輪とか古墳の専門家という言い方をされます。まぁ、ざっくりと広範囲に「土器」とか「陶器」とかそういうものを作る技術者集団ということでしょう。

大和朝廷は神に食料を捧げていました。神においしい食事を提供し、神が食事に感動すると、ご機嫌になって天変地異を避け、五穀豊穣となり、いいことづくめだからです。最初は「おいしい」が大事だったのでしょうが、徐々に器まで凝りはじめます。まぁ、当然の成り行きです。それで綺麗な器を求め、土師連に技術者を求めた、ということです。
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