秦造が禹豆麻佐となった理由

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雄略天皇(四十九)秦造が禹豆麻佐となった理由

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原文

十五年、秦民、分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、充積朝庭、因賜姓曰禹豆麻佐。一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也。

現代語訳

即位15年、秦の民を臣連(オミムラジ)たちに分散して、それぞれの願いのままに仕えさせました。秦造(ハダノミヤツコ)に委ねていなかった。それで秦造酒(ハダノミヤツコサケ)はそれを憂いて、天皇に仕えていました。天皇は(秦造酒を)寵愛していました。詔(ミコトノリ)して秦の民を集めて、秦酒公(ハタノサケノキミ)に与えました。百八十種勝(モモアマリヤソノスグリ=180種は「沢山」の意味、勝は官僚・役人か技術者か)を率いて、庸調(チカラツキ=税として徴収された絹・高級な絹【縑…カトリギヌ】など)を奉り献上して朝廷に充積(ツ)みあげました。それで姓を貰って、禹豆麻佐(ウツマサ)と言うようになりました。
ある伝によると「禹豆母利麻佐(ウツモリマサ)」はすべてを積み上げた形のことです。
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解説

秦造
秦造は名前からいうと「秦の人」という感じがします。ちなみに新羅は「中国の秦の民が流れてきて出来た国」という記述が「後漢書」「三国志」「晋書」「北史」にあるので、朝鮮半島には「秦」の人間がいたか、関係者がいたのは間違いないでしょう。現在の中国はこれらの記述を元に「朝鮮半島は昔から中国のもの!」と主張しています。まぁ、それは極端でしょうね。朝鮮半島のうちのどのくらいの割合か、実態はどうかと思いますけど、無関係ってわけにはいかないでしょう。

で秦造は何かと。古事記の応神天皇紀の「渡来系技術者達」によると「和邇吉師」が論語・千文字などを日本に持ってきたときに、秦造の祖先にあたる「酒の醸造法を知ってる」仁番(ニホ・別名を須須許理…ススコリ)が日本に来た、とあるので、朝鮮から渡来した人物です。

しかし「仁番(ニホ)」は朝鮮系の名前かというと、うーん、わたしには「中国風」の名前に見えますね。中国人が朝鮮に渡って「ススコリ」になった、と考えた方が自然じゃないかと。

その仁番が日本では「秦系」を統率する人だった。だから「通称」が「秦造」という名前になった。「酒」というのもおそらくは「祖先が酒造りで日本に来た」という由来から来ていると。個人名ではないと。
経緯
秦造が最初は統率していたけども、氏族に奪われて、秦造は縮小した。それがこの時代に雄略天皇におかげで盛り返した。盛り返したお返しに、貢物を献上して、それが「ウツマサ」という名前の由来となった、ということです。
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