漢織・吳織と衣縫の兄媛・弟媛は住吉津に泊まる

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雄略天皇(四十六)漢織・吳織と衣縫の兄媛・弟媛は住吉津に泊まる

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原文

十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、共吳国使、將吳所獻手末才伎・漢織・吳織及衣縫兄媛・弟媛等、泊於住吉津。是月、爲吳客道通磯齒津路、名吳坂。三月、命臣連迎吳使、卽安置吳人於檜隈野、因名吳原。以衣縫兄媛奉大三輪神、以弟媛爲漢衣縫部也。漢織・吳織衣縫、是飛鳥衣縫部・伊勢衣縫之先也。

現代語訳

即位14年春1月13日。身狭村主青たちは呉国の使者とともに、呉が献上した手末(タナスエ=手工業生産者)の才伎(テヒト=技術者)の漢織(アヤハトリ)・吳織(クレハトリ)と衣縫(キヌヌイ)の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)たちと住吉津(スミノエノツ)に泊まりました。

この月(1月)に呉の客人のための道を作って、磯歯津路(シハツノミチ=現在の大阪市住吉区から東住吉区?)に通しました。呉坂(クレサカ)と名付けました。

三月に臣連(オミムラジ)に命じて呉の使者を迎えました。呉人を檜隈野(ヒノクマノ)に安置しました。それで呉原(クレハラ=大和国明日香村栗原)と名付けました。衣縫(キヌヌイ)の兄媛(エヒメ)を大三輪神(オオミワノカミ=現在の大神神社の神)に奉りました。弟媛(オトヒメ)を漢衣縫部(アヤノキヌヌイベ)としました。漢織(アヤハトリ)・吳織(クレハトリ)の衣縫(キヌヌイ)は飛鳥衣縫部(アスカノキヌヌイベ)・伊勢衣縫(イセノキヌヌイ)の先祖です。
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解説

青と博徳が呉に行ったのは即位12年
呉国へと出発したのは即位12年4月4日。帰ってきたのがこのページの即位14年1月13日。
ちなみに第一回の呉行きは即位8年2月で帰ってきたのが即位10年9月4日。
ということはどちらも呉国へは2年掛けているわけです。
呉から献上された技術者
雄略天皇の時代には技術者を重要視したよう。雄略天皇が朝鮮の新羅を征伐に行って、内紛でボロボロになりつつ、朝鮮半島から技術者を連れ帰った際の記述が以下(詳細はリンクから)です。
雄略天皇(三十五)采女大海は小弓宿禰の埋葬地に悩む
大海(オオシアマ)は喜び、自然と黙っていられなくなり、韓奴(カラノヤッコ)室(ムロ)・兄麻呂(エマロ)・弟麻呂(オトマロ)・御倉(ミクラ)・小倉(オクラ)・針(ハリ)六口を大連に送りました。

わたしは「朝鮮人の名前が日本語なのはおかしい」と書いたのですが、この呉国から来た人物名が「兄媛」「弟媛」という日本語になっています。

うーん、ということは外国人には「日本語の名前」をつけるのが当たり前ということなのか。とも思うのですが、そもそも「呉国」は本当に「中国」なのでしょうか?

魏志倭人伝には「朝鮮半島の南部は倭国」とあるので、朝鮮半島の人間に「日本語風」の名前がついていてもおかしくない。しかし「雄略天皇」は「倭の武王」とされ、中国の江南の通称「呉」と呼ばれる地域にあった「宋」「斉」の国から「将軍」の号を貰っています。だから雄略天皇が「倭の武王」とは限らないし、違うという説もありますが、そこは割愛しても「呉」は「中国」と考えたほうが自然。

となると、「外国人にも日本名をつける」ものなのかも。
韓奴とは違う?
韓奴は「兄麻呂・弟麻呂」という個人名であるのに対して、呉からの技術者は「衣縫の兄媛・弟媛」となっているので、兄媛・弟媛は単に「姉妹」程度の意味かもしれません。
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