東山道・東海道・北陸道へ使者を派遣し国境を見させる

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崇峻天皇(十三)東山道・東海道・北陸道へ使者を派遣し国境を見させる

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原文

二年秋七月壬辰朔、遣近江臣滿於東山道使觀蝦夷国境、遣宍人臣鴈於東海道使觀東方濱海諸国境、遣阿倍臣於北陸道使觀越等諸国境。

現代語訳

即位2年秋7月1日。近江臣満(オウミノオミミツ)を東山道(ヤマノミチ)へ使者として派遣して、蝦夷の国の境を見させました。宍人臣鴈(シシヒトノオミカリ)を東海道(ウミツミチ)へ使者として派遣して東の方の海の浜にある諸国の境を見させました。阿倍臣(アヘノオミ)を北陸道(クルガノミチ)へ使者として派遣して越などの諸国の境を見せさせました。

解説

蝦夷は景行天皇の時代に平定したと言っていますが、敏達天皇の時代にも反逆がありました。蝦夷とは、日本書紀で描かれる時代の後に、アテルイvs坂上田村麻呂という蝦夷vs朝廷の戦争があります。つまり平定と言っても、かなり緩やかな関係だったと思われます。

私たちはなんとなく、「平定」というと、異民族を力でねじ伏せて、いうことを聞かせることだと思っていますが、それは儒教的・封建的な考えで、おそらくこの時代の日本にとって「平定」というのは、そういう意味では無かったのでしょう。もっと緩やかで、取引を持った程度のことだった。
だから何かでこじれて敵対することもあった。そういうことでしょう。

それで崇峻天皇の時代に蝦夷との関係を見直すことになった。仏教を取り入れれば、穢れを恐れずに済み、日本人でも軍隊を簡単に持てるようになる。日本人でも毛皮を持てる。日本人でも筆を使える。ということは、蝦夷や朝鮮人の役割が変化する(小さくなる)。それが蝦夷との関係を見直す理由でしょう。
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