倭の女王は訳を何度もして貢献しました。

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神功皇后(四十)倭の女王は訳を何度もして貢献しました。

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現代語訳

即位64年。百済国の貴須王(くゐすおう)が亡くなりました。王子の枕流王(トムルオウ)が王となりました。

即位65年。百済の枕流王が亡くなりました。王子の阿花(あくゑ)は年少でした。そこで叔父の辰斯(シンシ)が王位を奪って王となりました。

即位66年。
この年、晋の武帝の泰初二年です。晋の起居(キキョ=中国での天子の言行・勲功を記した日記帳の記述)によると、武帝泰初2年10月に倭の女王は訳(オサ)を何度もして貢献(コウケン=貢物を献上する)したと言います。


即位69年。夏4月の17日。皇太后は稚櫻宮(ワカサクラノミヤ)で崩御しました。その時の100歳でした。

冬10月15日。狹城盾列陵(サタノタタナミノミサザキ)に葬りました。この日に皇太后に追って尊び、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)と名を送りました。この年は太歲己丑(ツチノトウシ)です。
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解説

三国史記の百済記と符合
朝鮮の歴史書の三国史記の百済の記述と符合しています。まず貴須王(くゐすおう=14代王の近仇首王)が死亡し、15代王の枕流王(トムルオウ)が即位して1年後に死亡。次の王は16代王の辰斯王(シンシオウ)。
即位66年について
ここで言われているのは「武帝に倭の女王が何度も翻訳を重ねて謁見した」というもので、暗に卑弥呼神功皇后は同一人物だよ、と示唆しています。

しかし卑弥呼が3世紀の人物で神功皇后は4世紀の人物であることは間違いなく、同一人物ということはあり得ない。おそらく地域の神話の中では神功皇后卑弥呼は「同一視」されていたのではないか? と思います。

仲哀天皇が九州で死亡し、空中分解しかねない状態のとき、神功皇后が立ちました。彼女がトップになることで組織はまとまった。なぜか? 九州北部では「女性がボス」というケースが当たり前、もしくは女性がボスだと上手くいく、という考えが強かった。これは九州の土蜘蛛のボスが女性であることから明らかです。それで神功皇后をトップにして朝鮮征伐を行い、大和朝廷は発展した。

そういう経緯があったから、後の女性天皇である推古天皇が生まれる土台があったのでしょう。もしかすると推古天皇の時代であっても「女性がボスだと上手くいく」という感覚が九州には根強くあったんじゃないでしょうか。それで聖徳太子は推古天皇と組んで朝鮮征伐を計画した。これは結局頓挫しましたが、推古天皇の経緯が神功皇后の「創作」へとつながったのではなく、神功皇后という過去の成功事例に習って、聖徳太子たちは計画を立てたのでしょう。

では神功皇后とは何者か?
追尊皇太后、曰氣長足姬尊

という文章はつまり、死後に「気長足姫尊」という名前を送ったということになり、神功皇后がもともと、どういう名前だったのかは分からない状態となっています。どうしてこんなことをわざわざ書いたのか? 出自がハッキリしない人物だったのではないでしょうか? 神功皇后は天日槍(アメノヒボコ)の子孫とされていますが、これは朝鮮征伐を行ったことから後に紐付けられただけじゃないかと。
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原文

六十四年、百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。

六十五年、百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王。

六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」

六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚櫻宮。時年一百歲。冬十月戊午朔壬申、葬狹城盾列陵。是日、追尊皇太后、曰氣長足姬尊。是年也、太歲己丑。
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