播磨の鹿子水門の地名説話

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応神天皇(九)播磨の鹿子水門の地名説話

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現代語訳

ある伝によると…
日向(ヒムカ)の諸県君牛(モロガタノキミウシ=日向国諸県郡=現在の宮崎県東諸県郡・西諸県郡・北諸県郡・小林市・都城市・鹿児島県曽於郡の頭部の氏族)は朝廷に仕えて、年すでに老いて、仕えられなくなりました。それで朝廷を去り、本土(モトツクニ=本国)に退去しました。それで自分の娘の髪長媛(カミナガヒメ)を献上しました。それで(髪長媛が大和に行く途中で)播磨(ハリマ)に到着しました。その時、天皇は淡路島に行って遊獵(カリ=狩)をしていました。天皇が西の方を見ると、数十の大鹿が海に浮いて(泳いで)来ていました。それで(鹿たちが)播磨の鹿子水門(カコノミナト=兵庫県加古川・高砂市の加古川河口)に入りました。天皇は左右(モトコ=側近の従者)に言いました。
「あれはどういう大鹿なのか?
大海に浮かんで沢山来ているじゃないか」
左右(モトコ=従者)たちもそれを見て怪しみ、すぐに使者を派遣して調べさせました。使者がその場に到着して見ると、鹿だと思っていたものは、皆、人でした。ツノが付いた鹿の皮を衣服として着ていたのです。使者は問いました。
「お前たちは誰だ?」
答えました。
「諸県君牛(モロアガタノキミウシ)が年老いて、朝廷から去るといっても朝(ミカド)を忘れることが出来ませんでした。それで、自身の娘の髪長媛を献上する」
天皇は喜び、すぐに髪長媛を呼び寄せて船に乗せました。
それでその時代の人は、その岸に着いたところを名付けて『鹿子水門(カコノミナト)』といいます。水手(フナコ=水夫)を鹿子(カコ)と言うのは、これが始まりだといいます。
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解説

諸県君は景行天皇のときも出ている
「諸県君」という氏族景行天皇(十六)諸縣君泉媛にも登場しています。ここでは景行天皇が狩をしていると、川のほとりで人が集まっていて、景行天皇
「敵か?」
と不審がって調べてみると、諸県君の泉媛(イズミヒメ)が祭礼をしていた、というお話でした。

なんだろう、すごい話の構成が似ているんですよね。
狩をしていて、遠くから見て、なんだろうと天皇が思い、調べさせる。ディティールが違うのですが、全体でザックリ見ると、似ています。

諸県君の本国が宮崎から鹿児島にかけての土地と考えると、諸県君は大和朝廷にとってかなり重要な存在だったハズです。景行天皇は日本統一を目指していたのに、結局、九州南部は手に入らなかった。つぎに九州へと食指を伸ばした仲哀天皇は志半ばで死亡。その後、朝鮮征伐に行ってしまって、九州南部はどっちらけ。まだ勢力下にない。そんな九州南部とのパイプが「諸県君」の一族だったのではないでしょうか?

だから諸県君は大事な氏族だった。髪長媛との婚姻もそういう政治的な意図が強かったのではないかと思います。日本では天皇の妻の親は伝統的に権力を強く持ちますから。
鹿の皮
日本人は穢れを嫌います。穢れの代表が「動物の屍体」です。動物の屍体は穢れているので日本人は触れたがりません。だから日本の伝統工芸品には動物の屍体を材料とするものが筆くらいしか無いんです。

その鹿の皮を被る、ということは諸県君の集団は「大和朝廷」とは違う文化を持っていたのだと思います。同様に蝦夷もそうです。蝦夷は「毛人」とも書きます。彼らは動物の屍体を扱うことを厭わなかった。なぜか?

両者に共通するのは「米が作れない」ということです。

諸県君は九州南部は火山灰を含んだ土で水はけが良すぎて稲の水耕栽培が出来なかった。出来ないわけじゃないが、効率が悪い。現代でも宮崎と鹿児島は畜産が盛んです。一方蝦夷は東北。関東では稲作ができたでしょうが、東北は寒さで出来ない。

ならば動物を食料にし、それから道具を作るという文化があるのは当たり前、というか大和朝廷のように「動物の屍体は穢れている」という感覚の方が特殊です。

それで動物の屍体がどうして穢れているかというと……大和朝廷は、山にいる穀物の神が里に下りて、田畑に宿って作物が育つと考えていました。では、神様ってのはどうやって里にやってくるのか。山に入ると動物がいますよね。それで「神は動物に宿って」里に来ると考えるようになりました。神社にキツネといった神の使いが設定されているのはこれです。だから動物は殺しちゃいけない。殺せば神は祟るのです。このあたりはヤマトタケルの伊吹山のところを読むと分かります。だから動物の屍体は「神の祟り」にまみれています。それが穢れです。

穢れと米は一心同体です。穢れとは大和朝廷の信仰の中心でした。だから穢れと米は別々に出来ない。そこで蝦夷や隼人とは文化の共有が出来ず、文化摩擦が起きやすい。だけど穢れという信仰があることで、大和朝廷は筆も使えないし、鞭やなめし皮も扱えないのです。制約が大きい。諸県君は九州南部との貿易のパイプであり、同時に大和朝廷の不足した文化を補填する役割があり、強い影響力を持っていたのではないか?と思うのです。
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原文

一云、日向諸縣君牛、仕于朝庭、年既耆耈之不能仕、仍致仕退於本土、則貢上己女髮長媛。始至播磨、時天皇幸淡路嶋而遊獵之。於是天皇西望之、數十麋鹿、浮海來之、便入于播磨鹿子水門。天皇謂左右曰「其何麋鹿也、泛巨海多來。」爰左右共視而奇、則遣使令察、使者至見、皆人也、唯以著角鹿皮爲衣服耳。問曰「誰人也。」對曰「諸縣君牛、是年耆之、雖致仕、不得忘朝。故以己女髮長媛而貢上矣。」天皇悅之、卽喚令從御船。是以、時人號其著岸之處曰鹿子水門也。凡水手曰鹿子、蓋始起于是時也。
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