石上部舎人・的臣蚊嶋と穗瓮君の獄死・佐伯部を探す

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仁賢天皇(五)石上部舎人・的臣蚊嶋と穗瓮君の獄死・佐伯部を探す

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現代語訳

即位3年春2月1日。石上部舎人(イソノカミベノトネリ)を置きました。

即位4年夏5月。的臣蚊嶋(イクハノオミカシマ)と穗瓮君(ホヘノキミ)に罪があり、全員が獄に下って死んでしまいました。
瓮は倍(ヘ)といいます。

即位5年春2月5日。あちこちの国郡(クニコオリ)に散って逃げた佐伯部を探し求めました。佐伯部仲子(サエキベノナカチコ)を後に佐伯造(サエキノミヤツコ)としました。
佐伯部仲子は弘計天皇(=顕宗天皇)の紀に見えます。
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解説

石上部舎人
石上は石上神宮ではなく、仁賢天皇の宮の「石上広高宮」のこと。よってこの地域の部民ということ。
的臣蚊嶋・穗瓮君
この人物は他に見えません。的臣という名前は仁徳天皇の紀に見られ、どうやら「葛城氏」の関係者です。この二人の氏族が罪に問われ、死んでしまったということは、何かしら政争があったと考えた方がいいでしょう。一見すると「平和」な社会とされるのですが、すでにこのころから武烈天皇の「異変」があったのかも。

佐伯部仲子
仲子は「佐伯部売輪」の別名。顕宗天皇・仁賢天皇の父の市辺押磐皇子の従者で、雄略天皇に押磐皇子が殺されたときに一緒にころされ、同じ穴に埋められた人物です。
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原文

三年春二月己巳朔、置石上部舍人。四年夏五月、的臣蚊嶋・穗瓮君(瓮、此云倍)有罪、皆下獄死。五年春二月丁亥朔辛卯、普求國郡散亡佐伯部。以佐伯部仲子之後、爲佐伯造。佐伯部仲子事見弘計天皇紀。
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