小墾田屯倉を紗手媛に・桜井屯倉を香々有媛に・難波屯倉を宅媛に

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安閑天皇(六)小墾田屯倉を紗手媛に・桜井屯倉を香々有媛に・難波屯倉を宅媛に

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現代語訳

(即位1年)冬10月15日。天皇は大伴大連金村(オオトモノオオムラジカネムラ)に勅(ミコトノリ)して言いました。
「朕、四人の妻をめしいれて、今に至るまで嗣(ミツギ=後継者)がいない。万歳(ヨロヅトセ)の後に朕の名は絶えてしまうだろう。大伴の伯父(オキナ)よ。今、どうするべきだろうかと、常に思っても、憂慮はどうも止まらないものだ」
大伴大連金村は申し上げて言いました。
「わたしめも憂いているところです。我が国家の天下の王となれば嗣有(ミツギマシマシ)、嗣無(ミツギマシマサヌコト)を問わず、必ず物によって名をなします。請い願います。皇后・次妃(ツギノミメ)のために、屯倉(ミヤケ=直轄地)の土地を建立して、後代(ノチノヨ)に止めて、この跡を表しましょう」
安閑天皇は詔(ミコトノリ)して言いました。
「可(ユルス)。すぐに安置しろ」
大伴大連金村は申し上げて称しました。
「小墾田屯倉(オハリダノミヤケ=大和国高市郡=飛鳥付近)と国毎(クニゴト)の田部(タベ=屯倉を耕す民)を紗手媛(サテヒメ)に与えました。桜井屯倉(サクライノミヤケ=河内国河内郡桜井郷=現在の大阪府枚岡市池島?)と国毎(クニゴト)の田部を香々有媛(カカリヒメ)に与えました。
ある本によると茅渟山屯倉(チヌヤマノミヤケ)を加えて与えてといいます。

難波屯倉(ナニワノミヤケ)と郡毎(コオリゴト)の钁丁(クハヨホロ=?=詳細不明だが田部と同義と思われる)を宅媛(ヤカヒメ)に与えました。これをもって後世に示して、昔を見せよう」
詔して言いました。
「申したままに、施しを行え」
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解説

国毎(クニゴト)郡毎(コオリゴト)
おそらく、周辺の民を集めて、屯倉を工作する「田部」にしたという意味ではないかと。ただしこの時代に「郡」は無かったとされる。
皇后と妃の名代・子代を残すことの意味
子供のいない安閑天皇は、このままでは名が残らない。そこで物を残して名を残すことにした。記念碑みたいなものですね。それが「何々の屯倉」という直轄領なわけです。ということになっているのですが、屯倉の名前は天皇とも后妃とも無関係な地名となっているので、なんのことやら分かりません。

ただここであげられた妃の詳細な情報が無いので、彼女たちの本名と、屯倉の名前には本当は関連があるのかもしれません。例えば、紗手媛は略称で本当は「小墾田紗手媛」だったとか。それで小墾田屯倉だったとか。

ところで、ここでは名が出ない安閑天皇の皇后である春日山田皇女(仁賢天皇の娘でもある)は宣化天皇が崩御したときに次の欽明天皇に「登極」…つまり「女性天皇になる」ことを勧められます。

これまでの記紀の中で「皇女」を特別視する様子を見ると、天皇は権力者であっても、権力の根拠は「皇后」だったんじゃないかと思うんですよね。そして皇后は皇女が好ましい。これはおそらく、仲哀天皇が琴を弾いて、神功皇后に神が降りるというのが根っこだったからでしょう。天皇と皇后は「二人で一つの権力者」であり、皇后に神が降りるということは、実権は天皇でも、権力の理由は「皇后」だったんじゃないかと思うのです。それは妃でも同様で、霊的に強い妃は無視できなかった。だから屯倉がどうとかという記述になるんじゃないかと。
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原文

冬十月庚戌朔甲子、天皇勅大伴大連金村曰「朕、納四妻、至今無嗣、萬歲之後朕名絶矣。大伴伯父、今作何計。毎念於茲、憂慮何已。」大伴大連金村奏曰「亦臣所憂也。夫我國家之王天下者、不論有嗣無嗣、要須因物爲名。請爲皇后次妃建立屯倉之地、使留後代令顯前迹。」詔曰「可矣。宜早安置。」大伴大連金村奏稱「宜以小墾田屯倉與毎國田部給貺紗手媛、以櫻井屯倉(一本云「加貺茅渟山屯倉也。」)與毎國田部給賜香々有媛、以難波屯倉與毎郡钁丁給貺宅媛。以示於後、式觀乎昔。」詔曰「依奏施行。」
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