難波祝津宮への行幸・百済への4県割譲の失敗

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欽明天皇(七)難波祝津宮への行幸・百済への4県割譲の失敗

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現代語訳

(即位1年)9月5日。欽明天皇は難波祝津宮(ナニワノハフリツノミヤ=現在の尼崎市難波本町か現在の大阪市浪速区?)に行きました。大伴大連金村(オオトモノオオムラジカネムラ)・許勢臣稲持(コセノオミイナモチ)・物部大連尾輿(モノノベノオオムラジオコシ)たちが従い、お供をしました。天皇は諸臣に問いて言いました。
「幾ばくかの軍兵で新羅を征伐はできるだろうか?」
物部大連尾輿たは申し上げて言いました。
「少しばかりの軍兵をもって安易に征伐するべきではありません。昔、男大迹天皇(オオドノスメラミコト=継体天皇)の6年に百済は使者を派遣して、任那の上哆唎(オコシタリ)・下哆唎(アルシタリ)・娑陀(サダ)・牟婁(ムロ)の4県を求めて請いました。大伴大連金村は容易く、請われるがままに求める土地を許して与えてしまいました。それで新羅の恨みは積年なのです。たやすく征伐するできではありません」
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解説

過去の記事をなぞっているだけです。ただほぼ独断で割譲をした大伴金村がここでやり玉に挙げられています。ということは大伴金村の勢力が低下しているということです。金村の勢力が低下したのは、自身が連れてきた「血の薄い継体天皇」とその子の「安閑天皇・宣化天皇」から、正当な皇女を母に持つ「欽明天皇」へと移行したことと関係あるのではないかなと思います。
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原文

九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮、大伴大連金村・許勢臣稻持・物部大連尾輿等從焉。天皇問諸臣曰「幾許軍卒、伐得新羅。」物部大連尾輿等奏曰「少許軍卒、不可易征。曩者、男大迹天皇六年、百濟遣使表請任那上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁四縣、大伴大連金村輙依表請許賜所求。由是、新羅怨曠積年、不可輕爾而伐。」
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