斉明天皇(十三)阿倍引田臣比羅夫の粛慎征伐・智踰の指南車・雀魚

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斉明天皇(十三)阿倍引田臣比羅夫の粛慎征伐・智踰の指南車・雀魚

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原文

是歲、越国守阿部引田臣比羅夫、討肅愼、獻生羆二・羆皮七十枚。沙門智踰、造指南車。出雲国言「於北海濱魚死而積、厚三尺許。其大如鮐、雀涿針鱗、鱗長數寸。俗曰、雀入於海化而爲魚、名曰雀魚。」或本云、至庚申年七月、百濟遣使奏言、大唐・新羅幷力伐我。既以義慈王・王后・太子、爲虜而去。由是、国家以兵士甲卒陣西北畔、繕修城柵斷塞山川之兆也。又、西海使小花下阿曇連頰垂、自百濟還言、百濟伐新羅還時、馬自行道於寺金堂、晝夜勿息、唯食草時止。或本云、至庚申年爲敵所滅之應也。

現代語訳

(即位4年)この年、越国守(コシノクニノカミ)の阿倍引田臣比羅夫(アヘノヒケタノオミヒラブ)は粛慎(ミシハセノクニ=異民族)を征伐して、生羆(シクマ)2頭・羆の皮を70枚を献上しました。沙門(ホウシ)の智踰(チユ)は指南車(シナンノクルマ=方位磁石をつけた車)を作りました。
出雲国が報告しました。
「北の海の浜に魚が死んで積み上がっていました。厚さは3尺ばかり。その大きさは河豚のようで、雀の口、針のような鱗がありました。鱗の長さは数寸です。俗人は言いました。
『雀が海に入って魚に化けた。名付けて雀魚(スズメオ)という』」
ある本によると、庚申年7月、百済は使者を派遣して言いました。
「大唐・新羅は力を合わせて我(=百済)を征伐しました。すでに義慈王(ギジオウ)・王后(コニオルク)・太子(コニキシ)となり、捕虜として去りました」
それで国家は兵士甲卒(イクサビト)で西北の畔(ホトリ)に陣を敷き、城柵(キカキ)を修繕し、山川を断ち、塞ぐ兆候だと言いました。

また西海の使者の小花下(ショウカゲ)の阿曇連頰垂(アズミノムラジツラタリ)は百済から帰って言いました。
「百済は新羅を征伐して帰りました。その時、馬が自然と寺の金堂に行き巡りました。昼夜、休息することもありませんでした。ただし草を食べる時だけ止めました」
ある本によると庚申年に敵のために滅ぼされる兆しと言います。
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解説

スズメフグ
この雀のようなフグのような魚はイシフグかスズメフグとされます。スズメフグはクサフグの別称。問題はこれが何なのかというよりは、このフグが海に打ち上げられたことを「どう捉えたか?」にあります。
庚申年
庚申年は西暦でいうと660年。660年7月に新羅と唐の連合軍により百済が滅ぼされました。7月に滅ぼされ、9月に義慈王たちが唐へと連れ去られてます。ここでは7月の記事として義慈王が連れて行かれたことが書かれていて、これを「おかしい」と批判する人もいますが、「ある本によると」と注釈していますから、さほど気にすることでもないような。

百済まで軍隊が来ているんだから、日本は守るために西北に陣を敷かないといけないと考えるようになります。
阿曇連頰垂の報告
この記事は朝鮮の歴史書の三国史記によると、義慈王15年(=斉明天皇即位元年)のこととしていて、5年前の話ということになります。5年前の事象をここに書くということは、どういうことか?

あくまで関連資料として併記しただけじゃないか。
もしくは三国史記自体が疑わしいか。
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