天武天皇(五十八)多禰嶋人を飛鳥寺でもてなす・杙田史名倉を伊豆へ流す

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天武天皇(五十八)多禰嶋人を飛鳥寺でもてなす・杙田史名倉を伊豆へ流す

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原文

六年春正月甲子朔庚辰、射于南門。二月癸巳朔、物部連摩呂、至自新羅。是月、饗多禰嶋人等、於飛鳥寺西槻下。三月癸亥朔辛巳、召新羅使人淸平及以下客十三人於京。夏四月壬辰朔壬寅、杙田史名倉、坐指斥乘輿、以流于伊豆嶋。乙巳、送使珍那等、饗于筑紫。卽從筑紫歸之。

現代語訳

即位6年春1月17日。南門で弓を射る儀式をしました。
2月1日。物部連摩呂(モノノベノムラジマロ)が新羅から到着しました。
この月に多禰嶋人(タネノシマビト=種子島の人)たちを飛鳥寺の西の槻(ツキ)の木の下で宴会をしてもてなしました。
3月19日。新羅の使者の清平(ショウビョウ)と以下の客人13人を京(ミヤコ)に呼び寄せました。
夏4月11日。杙田史名倉(クイタノフビトナクラ)は乗輿(キミ=天皇のこと)を誹り、非難したことで、伊豆嶋(イズノシマ)に流しました。
4月14日。送迎の使者の珍那(チンナ)たちを筑紫で宴会をしてもてなしました。すぐに筑紫から帰りました。
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解説

種子島との交流
相変わらず朝鮮との交わりは続きますが、種子島との交易もしているようです。何せ、鹿児島経由で、中国に遣唐使を送るくらいですから、沖縄→台湾経路の貿易もしていたでしょう。
杙田史名倉
どのような非難があったのでしょうか。
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