異俗が多く帰する

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崇神天皇(十八)異俗が多く帰する(日本書紀)

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原文

十一年夏四月壬子朔己卯、四道將軍、以平戎夷之狀奏焉。是歲、異俗多歸。国內安寧。

現代語訳

崇神天皇11年夏4月28日。四道将軍は戎夷(ヒナ=周辺の異民族の蔑称)を平定した状況を天皇に報告しました。この年、異民族が沢山と従うようになり、国内は安寧でした。

解説

四道将軍を派遣して埴安彦の反逆があったのが、崇神天皇10年でした。

個人的コラム

夷狄(ヒナ・イテキ)という表記は中国の史書の描き方です。中国は「中華思想」で周囲の異民族をバカにしていました。夷狄はそういう蔑称です。

それで日本も習ったのでしょう。
ところで日本の周囲に「異民族」が居たのでしょうか?
分かりません。
居たのかもしれません。
確実に東北に蝦夷がいました。蝦夷はどうも血統でいうと「縄文人」です。では天皇の血統はどうかというと、「隼人」です。ニニギが南九州に降り、その後の神話は明らかに隼人です。また、神武天皇は九州から東征しています。

ヤマトタケルの時代に東北から「佐伯」が伊勢へと連れてこられます。この佐伯は「騒がしい」ので伊勢から、広島などへと移民させられます。この「騒がしい」をどういう意味かと考えた時、私は「悪い意味」ではないんじゃないか?と思うのです。

隼人は大和朝廷に参加した後に大和朝廷の警備の仕事をするようになります。隼人は「犬のように吠えた」とされます。これは「声が魔を祓う」という意味です。

神武天皇が東征して、長髄彦に敗北した後に雄叫びをあげます。敗北という魔を祓ったのです。

日本人は「声」に特別な力があると考えていました。それは佐伯も同じだったのではないか?と思うのです。

だから夷狄といっても、どの程度の文化の質に違いがあったのか?は分かりません。中国人にとっての夷狄とはニュアンスは大分違うんだろうと思うのです。
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