景行天皇(六)80人の子供、兄遠子と弟遠子と大碓命

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景行天皇(六)80人の子供、兄遠子と弟遠子と大碓命

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原文

天皇之男女、前後幷八十子。然除日本武尊・稚足彦天皇・五百城入彦皇子外、七十餘子、皆封国郡、各如其国。故、當今時謂諸国之別者、卽其別王之苗裔焉。是月、天皇、聞美濃国造名神骨之女、兄名兄遠子・弟名弟遠子、並有国色、則遣大碓命、使察其婦女之容姿。時大碓命、便密通而不復命。由是、恨大碓命。冬十一月庚辰朔、乘輿自美濃還。則更都於纏向、是謂日代宮

現代語訳

これら天皇の子供達は全てあわせて80人になります。しかし日本武尊(ヤマトタケルミコト)・稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)・五百城入彦皇子(イホキイリビコノミコ)以外の70あまりの子供達は皆、国群の国造・和気・稲置・県主などに任じて、それぞれの国へと行かせました。それで現在の世で国々の「別(ワケ)」という名はつまり「別王(ワケノミコ)」の末裔です。

この月のこと(景行天皇即位4年の2月)。美濃国造の神骨(カムボネ)という名の人物に姉の名は兄遠子(エトオコ)、妹の名は弟遠子(オトトオコ)という姉妹がいました。二人ともが有国色(カオヨシ)と景行天皇は聞いて、その婦女の容姿を見たいを思いました。それで大碓命(オオウスミコト)に景行天皇の代わりに密かに婦女のもとへと送ったのですが、報告もしませんでした。景行天皇はこれで大碓命を恨みました。

冬11月1日。乘輿(スメラミコト=天皇が乗る乗り物の尊称)は美濃へと帰りました。また纒向(マキムク)に都を作りました。これを日代宮(ヒシロノミヤ)といいます。
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解説

すごい子供の数
子供の数は80人。ビッグダディもびっくり。景行天皇の時代にこれだけの子供を作ったことが大和朝廷の礎になったんじゃないか?と思うほど。

「ワケ」というのは、ここでは「子供に土地を分ける」的なニュアンスで書かれている(そうとも取れなくもない)のですが、それが本当かどうかは微妙。

ワケは後世の言葉という説もあって、上記の挿話は後付けとも言われますが、「ワケ」はアメノイワトワケ神・カモワケイカヅチ神・オオトヒワケ神・タケヨリワケ神などなど挙げればきりがないほどに「神の名前」につけられているので、意味はともかく、漠然とした「尊称」と考えるべきかと思われます。

オオウスが!
大碓(オオウス)が美女姉妹を父親である景行天皇から横取りしていしまいます。古事記の方が分かりやすく書いてあります。
参考:大碓命
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