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梯立ての 倉椅山を 嶮しみと
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket読み下し文
爾くして、速總別の王、女鳥の王、共に逃げ退きて倉椅山に騰りき。 ここに速總別の王、歌いて曰く、
波斯多弖能 久良波斯夜麻袁 佐賀志美登 伊波迦伎加泥弖 和賀弖登良須母
また歌いて曰く、
波斯多弖能 久良波斯夜麻波 佐賀斯祁杼 伊毛登能煩禮波 佐賀斯玖母阿良受
故、其の地より逃げ亡せて、宇陀の蘇邇に到りし時に、御軍追い到りて殺しき。 其の將軍、山部の大楯の連、其の女鳥の王の御手に纏ける玉釧を取りて己が妻に與えき。
波斯多弖能 久良波斯夜麻袁 佐賀志美登 伊波迦伎加泥弖 和賀弖登良須母
また歌いて曰く、
波斯多弖能 久良波斯夜麻波 佐賀斯祁杼 伊毛登能煩禮波 佐賀斯玖母阿良受
故、其の地より逃げ亡せて、宇陀の蘇邇に到りし時に、御軍追い到りて殺しき。 其の將軍、山部の大楯の連、其の女鳥の王の御手に纏ける玉釧を取りて己が妻に與えき。
現代語訳
速総別王(ハヤブサワケノミコ)は女鳥王(メドリノミコ)と共に逃げて退いて倉椅山(クラハシヤマ=奈良県桜井市倉橋の南の山)に登りました。そこで速総別王(ハヤブサワケノミコ)が歌いました。
梯(ハシ)立ての 倉椅山(クラハシヤマ)を 嶮(サガ)しみと 磐(イワ)かきかねて 我が手取らすも
また歌いました。
梯立ての 倉椅山を 嶮(サガ)しけど 妹と登れば 嶮(サガ)しくもあらず
その地(倉椅山)から逃げ延びて、宇陀(ウダ)の蘇邇(ソニ=奈良県宇陀郡曽爾村)に到着したとき、天皇の軍が到着して二人を殺してしまいました。その軍の将軍の山部大楯連(ヤマベノオオタテノムラジ)は女鳥王の手に巻いていた玉釧(タマクシロ=玉で作った釧)を取って、自分の妻に与えました。
梯(ハシ)立ての 倉椅山(クラハシヤマ)を 嶮(サガ)しみと 磐(イワ)かきかねて 我が手取らすも
歌の訳(「梯立ての」は倉椅山の枕詞)倉椅山が険しく磐に手をつくことも出来ず、私の手を取った。
また歌いました。
梯立ての 倉椅山を 嶮(サガ)しけど 妹と登れば 嶮(サガ)しくもあらず
歌の訳(「梯立ての」は倉埼山の枕詞)倉埼山は険しいのだが愛する人と登れば険しく思わないなぁ。
その地(倉椅山)から逃げ延びて、宇陀(ウダ)の蘇邇(ソニ=奈良県宇陀郡曽爾村)に到着したとき、天皇の軍が到着して二人を殺してしまいました。その軍の将軍の山部大楯連(ヤマベノオオタテノムラジ)は女鳥王の手に巻いていた玉釧(タマクシロ=玉で作った釧)を取って、自分の妻に与えました。
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解説
殺される二人の逃避行
次のページで二人は殺されます。仁徳天皇の異母妹でありながら夫の速総別王と共に反逆した女鳥王。まぁ、話の流れから言うと、仁徳天皇が振られて逆上して殺されたという感じがしないでもない。それはともかく。
天皇への反逆がばれ、逆に天皇に軍隊を回されて倉埼山へと敗走。その倉埼山を登る様子が描かれています。ですが、ここで「梯立ての…」と始まる二つの歌は、もともとは無関係な歌謡だったと思われます。
という風に「歌」のテーマとして「険しい山で愛する人と手を取り合って…」というのは、現代にも通じるテーマかつ、古代の歌謡ではステレオタイプ(ありきたりな)テーマだったんでしょう。
思い返すと仁徳天皇が大后の目を盗んで黒日売と浮気する「淡路島経由、黒日売との吉備での逢瀬」や応神天皇が子供である仁徳天皇に髪長比売(カミナガヒメ)を与えたとき「いざ子ども野蒜摘みに」といった歌では「山菜・野草を摘みに行く」=「デート」でしたから、古代の日本人にとって険しい山に愛する人と野草を摘みに行くというのが「健全でオーソドックス」な逢瀬だったんでしょう。
そう考えると山の神は基本女神で、「多産」という性質を持っているのはなかなか感慨深いというか、まぁ、そういうことなんじゃないかなぁとも。
次のページで二人は殺されます。仁徳天皇の異母妹でありながら夫の速総別王と共に反逆した女鳥王。まぁ、話の流れから言うと、仁徳天皇が振られて逆上して殺されたという感じがしないでもない。それはともかく。
天皇への反逆がばれ、逆に天皇に軍隊を回されて倉埼山へと敗走。その倉埼山を登る様子が描かれています。ですが、ここで「梯立ての…」と始まる二つの歌は、もともとは無関係な歌謡だったと思われます。
例えば「肥前風土記」には「あられふる杵島が岳をさがしみと草取りかねて妹が手を取る」。
例えば「万葉集」には「霰降り、吉志美が嶽(タケ)を嶮(サガ)しみと草取りかなわ妹が手を取る」。
例えば「万葉集」には「霰降り、吉志美が嶽(タケ)を嶮(サガ)しみと草取りかなわ妹が手を取る」。
という風に「歌」のテーマとして「険しい山で愛する人と手を取り合って…」というのは、現代にも通じるテーマかつ、古代の歌謡ではステレオタイプ(ありきたりな)テーマだったんでしょう。
思い返すと仁徳天皇が大后の目を盗んで黒日売と浮気する「淡路島経由、黒日売との吉備での逢瀬」や応神天皇が子供である仁徳天皇に髪長比売(カミナガヒメ)を与えたとき「いざ子ども野蒜摘みに」といった歌では「山菜・野草を摘みに行く」=「デート」でしたから、古代の日本人にとって険しい山に愛する人と野草を摘みに行くというのが「健全でオーソドックス」な逢瀬だったんでしょう。
そう考えると山の神は基本女神で、「多産」という性質を持っているのはなかなか感慨深いというか、まぁ、そういうことなんじゃないかなぁとも。
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- Page13 高行くや 速總別の 御襲料
- Page14 梯立ての 倉椅山を 嶮しみと
- Page15 大楯連の妻の玉釧
- Page16 そらみつ 倭の国に 雁産むと 未だ聞かず
- Page17 枯野の 塩に焼き 其が余り 琴に作り
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