倭帒と韓帒の対処

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顕宗天皇(十六)倭帒と韓帒の対処

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原文

五月、狹々城山君韓帒宿禰、事連謀殺皇子押磐、臨誅叩頭、言詞極哀。天皇、不忍加戮、充陵戸兼守山、削除籍帳、隸山部連。惟倭帒宿禰、因妹置目之功、仍賜本姓狹々城山君氏。六月、幸避暑殿、奏樂、會群臣、設以酒食。是年也、太歲乙丑。

現代語訳

(即位1年)5月。狹々城山君韓帒宿禰(ササキノヤマノキミカラフクロノスクネ)は図って皇子の押磐(オシハ)を殺したことに関わりました。それで誅殺されることになりました。頭を地面に叩きつけて吐いた言葉があまりに悲しく思ったので、天皇は殺すのが忍びなくなり、陵戸(ミサザキノヘ=墓守)にあて、それと兼ねて山守をさせました。籍帳(ヘノミフタ)を削り捨てて、山部連に隷属させました。それで倭帒宿禰(ヤマトフクロノスクネ)は妹の置目(オキメ)の功によって、元の姓の狹々城山君(ササキノヤマノキミ)の氏名を与えられました。

6月。避暑殿(スズシキトノ)に行き、奏楽をしました。群臣(マヘツノキミタチ)を集めて、酒食の宴会を催しました。この年、太歲乙丑でした。
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解説

倭帒と韓帒
雄略天皇が市辺押磐皇子を殺すときに、手を貸した人物が「韓帒」。そして押磐皇子の子供が権力者になると、父の遺体の場所を子供達に教えた人物が「倭帒の妹の置目」。子供達は韓帒を罰することにした。しかし、あまりに反省しているようなので、殺しはしなかった。一方、倭帒は本来の姓である「狹々城山君」を取り戻した。
もうちょっと分かりやすく
どうも狹々城山君というグループがあって、そこの韓帒が犯した罪によって全員が罰を受け、狹々城山君のグループ全員が山部連に隷属させられたのですが、置目の功績によって倭帒宿禰だけが、狹々城山君の姓を取り戻した、ということです。

狹々城山君というのはそもそも孝元天皇の子供の大彦命が祖先で、歴史のある氏族なわけです。しかし、このグループの名前が倭帒・韓帒と置目というのは妙な感じがしませんか?

わたしはこう考えています。
狹々城山君の人物はこの時代に権力と強く関わったか、大和朝廷に帰属した。そこで狹々城山君の「伝承」を大和朝廷が取り込んだ。おそらくこんな伝承です。

兄弟がいた。兄と弟のうち、片方は人間性の問題があったが豊か。もう一方は善良だが貧しい。ある日、人間性に問題がある方が嘘をついて更に富を得た。善良な方はその割りを食って、更に貧しくなったが、その嘘を見抜き、証拠を掴んでいた。ある日、その証拠を突き出して、人間性に問題がある方を破滅させ、善良な方は富を手にした。

まぁ、こういうタイプの……花咲か爺さん・舌切り雀といった「正邪を対比するタイプの伝承」が狹々城山君にはあった。その登場人物の名前が「倭帒と韓帒」だったんじゃないかと。
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