天武天皇(六十三)倉梯の斎宮・十市皇女の死

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天武天皇(六十三)倉梯の斎宮・十市皇女の死

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原文

七年春正月戊午朔甲戌、射于南門。己卯、耽羅人向京。是春、將祠天神地祗而天下悉祓禊之、竪齋宮於倉梯河上。夏四月丁亥朔、欲幸齋宮卜之、癸巳食卜。仍取平旦時、警蹕既動・百寮成列・乘輿命蓋、以未及出行、十市皇女、卒然病發、薨於宮中。由此、鹵簿既停、不得幸行、遂不祭神祗矣。己亥、霹靂新宮西廳柱。庚子、葬十市皇女於赤穗。天皇臨之、降恩以發哀。秋九月、忍海造能摩呂、獻瑞稻五莖。毎莖有枝。由是、徒罪以下悉赦之。三位稚狹王薨之。

現代語訳

即位7年春1月17日。南門で弓を射る儀式をしました。
1月22日。耽羅人(タムラビト=済州島人)が京(ミヤコ)に向かいました。
この春に天神地祇(アマツカミクニツカミ)を祭ろうとして、天下のすべてを祓禊(オオミハラエ)をしました。斎宮(イツキノミヤ)を倉梯(クラハシ=倉梯川=大和川の支流)の河上(カワカミ)に建てました。
夏4月1日。斎宮に行こうとして占いました。
4月7日が良いと、占いで出ました。平旦(トラ=寅の刻=午前4時)の時に、警蹕(ミサキオイ=天皇が出入りする時に、声をかけて人払いをすること)をやりました。百寮(ツカサツカサ=役人)は列を成し、乗輿(キミ)は蓋をして、まだ出発していない時に、十市皇女(トオチノヒメミコ=天武天皇の娘)は突然に発病して、宮中で亡くなりました。それで鹵簿(ミユキノツラ=天皇が出かける行列)は止まり、行幸できませんでした。ついには神祇を祭りませんでした。
4月13日。新宮(ニイミヤ=?)の西庁(ニシノマツリゴトドノ)の柱に霹靂(カムトキ=雷が落ちる)しました。
4月14日。十市皇女(トオチノヒメミコ)を赤穂(アカホ=大和国添上郡赤穂神社=現在の奈良県奈良市高畑町)に葬りました。天皇はそれを見て、恩寵を降して、発哀(ミネ=葬式で泣いて悲しみを表現する)しました。
秋9月。忍海造能摩呂(オシヌミノミヤツコヨシマロ)が、瑞稲(アヤシキイネ=霊力のある稲)を5茎を献上しました。茎ごとに枝分かれしていました。それで徒罪(ミツカウツミ=軽い罪)より下を全て許しました。三位の稚狹王(ワカサノオオキミ)が亡くなりました。
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解説

十市皇女
十市皇女は天武天皇の娘。ただそれだけでなく、伊勢神宮に斎宮として出向いています。伊勢神宮は壬申の乱で大きな役割を果たし、また、これ以降は、アマテラスを皇祖とするのですから伊勢神宮は天皇にとっての重要な存在です。天武天皇とこの伊勢神宮を強く結びつける大事なパイプ役が十市皇女。彼女の死は単なる娘の死とは意味合いが違っていたはずです。
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