天武天皇(七十三)新羅の貢物・暴悪者が巷里に・寺の老病者の処遇

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天武天皇(七十三)新羅の貢物・暴悪者が巷里に・寺の老病者の処遇

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原文

九月戊寅朔癸巳、遣新羅使人等、返之、拜朝。庚子、遣高麗使人・遣耽羅使人等、返之、共拜朝庭。冬十月戊申朔己酉、詔曰「朕聞之、近日暴惡者多在巷里。是則王卿等之過也。或聞暴惡者也煩之忍而不治、或見惡人也倦之匿以不正。其隨見聞以糺彈者、豈有暴惡乎。是以、自今以後、無煩倦而上責下過・下諫上暴、乃国家治焉。」

戊午、地震。庚申、勅制僧尼等威儀及法服之色・幷馬從者往來巷閭之狀。甲子、新羅、遣阿飡金項那・沙飡薩虆生、朝貢也。調物、金銀鐵鼎錦絹布皮馬狗騾駱駝之類、十餘種。亦別獻物、天皇・皇后・太子、貢金銀刀旗之類、各有數。是月、勅曰「凡諸僧尼者、常住寺內以護三寶。然、或及老・或患病、其永臥狹房久苦老疾者、進止不便・淨地亦穢。是以自今以後、各就親族及篤信者而立一二舍屋于間處、老者養身・病者服藥。」
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現代語訳

(即位8年)9月16日。新羅に派遣した使者たちが帰ってきて朝廷で拝礼をしました。
9月23日。高麗に派遣した使者と、耽羅(タムラ=済州島)に派遣した使者たちが帰って、朝廷で拝礼しました。

冬10月2日。詔(ミコトノリ)して言いました。
「朕(ワレ)は聞く。この頃、荒々しい悪い者が大勢、港や里にいると。これは王卿(オオキミマヘツキミ=王族と臣下)たちの過失だ。あるいは荒々しく悪い者の話を聞いても、煩わしいと思って、隠れて調べないのだ。あるいは悪い人を見ても、怠って、隠して正さないのだ。見たときに聞いたときに、正していれば、どうして荒々しい悪い者がいるだろうか。今から以後、めんどくさく思って怠ることがないように、上のものは下のものの過失を責め、下のものは上のものの暴虐を諌めれば、国家は治るだろう」

10月11日。地震がありました。
10月13日。勅(ミコトノリ)して僧尼たちの、威儀(ヨソイ=立ち振る舞いと作法)と法服(ノリノコロモ)の色、また馬と従者が里と寺を往来する形式を制定しました。
10月17日。新羅は阿飡(アサン=新羅の官位の名前)の金項那(キンコウナ)・沙飡(ササン=新羅の官位の名前)の薩虆生(サチルイショウ)を派遣して朝貢しました。調物(ミツキノモノ)は、金・銀・鉄(ネリカネ)・鼎(カナエ=鉄鍋)・錦・絹・布・皮・馬・狗(イヌ)・騾(ラ=ロバと馬の混種)・駱駝(ラクダ)の類など、10種余りです。また別に物を献上しました。天皇・皇后・太子に金・銀・刀・旗の類を献上しました。それぞれに数がありました。

この月に勅(ミコトノリ)して言いました。
「すべての諸々の僧とアマは常に寺の中に居て、三宝(サンポウ=仏法僧)を守りなさい。しかし、あるいは老い、あるいは病気になって、永く狭い部屋に伏して、永く老い病に苦しんだものは、どうしようもない。それでは清らかな場所が穢れてしまう。今から以後、親族と信仰心のあるものに付いて、1つか2つの舎屋(ヤカズ=小屋)を空き地に立てて、老いたものはその身を養ってもらい、病気のものは薬を服用しなさい」
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解説

仏教と穢れ
仏教には穢れの概念がないので、死のうが病気になろうが、それが穢れだからと言って、寺が拒絶することはないのですね。そういう場所じゃない。僧や尼はそうなんですが、寺には氏族も関わっています。天皇や皇族も寺を建てています。彼らは穢れが強いのですから、寺が穢れていると、寺に入れない。入りたくない。これでは寺の管理が出来ませんから、寺に病気の人や死にかけは居てほしくないのです。
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