天武天皇(七十七)橘寺の失火・寺は官司が治めてはいけない・寺の食封の禁止

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天武天皇(七十七)橘寺の失火・寺は官司が治めてはいけない・寺の食封の禁止

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原文

夏四月乙巳朔甲寅、祭廣瀬龍田神。乙卯、橘寺尼房失火、以焚十房。己巳、饗新羅使人項那等於筑紫、賜祿各有差。是月、勅「凡諸寺者自今以後、除爲国大寺二三以外、官司莫治。唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。且以爲飛鳥寺不可關于司治、然元爲大寺而官司恆治、復嘗有功、是以猶入官治之例。」

現代語訳

(即位9年)4月10日。広瀬・竜田の神を祭りました。
4月11日。橘寺(タチバナデラ)の尼房(アマムロ=尼の家)に失火(ミズナガレ)して、10房を焼きました。
4月25日。新羅の使者の項那(コウナ)たちを筑紫で宴会してもてなしました。禄(モノ)を与えて、それぞれに品がありました。

この月に、勅(ミコトノリ)して言いました。
「すべての諸々の寺は、今から以後、国の大寺である2つか3つを除いて、これ以外に官司(ツカサツカサ=役人)は治めてはいけない。ただし食封(ヘヒト=所有している民)がある寺は、これから30年を限る。もし年を数えて、30年満たせば、食封(ヘヒト)はやめなさい。また飛鳥寺は司(ツカサ=役人)が統治に関与してはいけないとされていたが、昔から大寺として官司(=役人)が常に治めてきた。また助けられ、功績があった。それで官が治める例に入れなさい」
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解説

飛鳥寺の功績
飛鳥寺の功績とは蘇我蝦夷の討伐の際に中大兄皇子(=天智天皇)が飛鳥寺(=法興寺)を利用したことや壬申の乱で大伴吹負が飛鳥寺に寄ったことのことだとされます。

仏教は明らかに大和朝廷の管理下にありました。しかし、これからは少し、距離を取ろうというのです。それに寺が所有している民(食封)を30年後までには無しにするってんだから、これからどうやって寺は収入を得ていけばいいんでしょうかね。
まぁ、寺が氏族の「資産隠し」になっていたんじゃないかと私は思うのです。それを牽制するのが目的だったんじゃないかなぁと。
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