太宰府政庁跡

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太宰府政庁跡

投稿日時:2017-05-29 11:34:40
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太宰府政庁跡

住所
〒818-0101 福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1
駐車場
近くにあり。パっと見た感じ20台くらい(数えていないのであてにしないで)。
と言っても集客する神社や施設があるわけじゃないので、ここがいっぱいになることはほとんどないと思います。
施設
太宰府政庁跡自体はほぼ何もない。跡があるだけ。
横にトイレと太宰府展示館がある。太宰府展示館では職員さんが説明してくれますので、話しかけて上げてください。

物語・由来

大宰
そもそも複数の地域を統括する部署として「大宰(オオミコトモチ)」というものがありました。大宰は地方の行政長官です。総令とも呼ばれます。吉備大宰、周防総令、伊予総領というのが日本書紀には見られます。大宰の日本書紀の初出は推古天皇の時代。

初出がこの時期ではありますが、「大宰」と呼ばれていたかはともかく、そういう役職は推古天皇以前からあったと考えるのが妥当でしょう。
太宰は九州だけに
大宝律令(701年)に大宰は九州のだけを残して廃止されました。それで「太宰」と言えば九州の太宰府を指すようになります。ところで律令制度では、その土地の人たちが税を納めに行くので、地方と都の行程(距離)の記述があります。ところが九州だけは都との距離ではなく「太宰府との距離」が書かれています。太宰府は税を納める場所だったわけです。つまり、かなり重要な「地方行政機関」だった。
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太宰府と百済援助

斉明天皇の時代に、日本は朝鮮半島の百済を援助します。百済を援助するために九州の朝倉宮に移ります。ところが日本は白村江の戦い(660年)に敗北。日本の防衛最前基地になりました。朝倉宮は放棄されてしまいますが、どうやらこの朝倉宮が太宰府の「原型」だったのではないかと思われます。ただし、朝倉宮と太宰府がまったく同じ場所であるかは分かりませんし、今の所は「別」だろうと言われています。ただ、このあたりが重要な土地となり、そこに税として食料が持ち運ばれた。前線基地の性質がのちまで引きずられたのではないかと思います。
●ただし日本書紀には推古天皇のところに「大宰」の記述があるので、それ以前から重要な土地ではあった。

発掘について
発掘は1943年(昭和18年)に行われた。それまでこの土地は周囲の人たちから「あそこは天皇さんの土地」と言われていた。
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