好太王の碑

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好太王の碑

漢字・読みコウタイオウノヒ
別名広開土王碑・広開土王陵碑
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概要

まとめ
日本と新羅の関係年表・新羅本紀より」と見比べると分かるが、新羅本紀の記述と一致する。この好太王の碑は「神宮皇后の朝鮮征伐」を裏付けする資料となっています。

ただし碑が「戦時中に日本の朝鮮併合の理由づけとなった神宮皇后の実在を証明する資料とするために、碑の改ざんがあった」とする説(現在は根も葉もない仮説と判明)があり、この碑を持って「神宮皇后の実在の証明」とすることに、今でも腰が引ける雰囲気があります。まぁ、自虐史観ですね。
●神宮皇后は4世紀頃と思われる女帝。碑をもって実在を証明することは出来ませんが、古事記・日本書紀の神宮皇后の朝鮮征伐(海原の魚、大小きを問はず悉に御船を負ひて渡りきを参考)に描かれるような朝鮮半島への進出・半島への影響力が倭にあったのは間違いないということ。
神功皇后が4世紀のいつの人物はハッキリしない。推測のみ。好太王の碑の391年に百済と新羅を臣民としたものが神宮皇后の朝鮮征伐とは限らない。ただしこの頃に倭が強い勢力を持っていたことは間違いない。
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物語・由来

注意事項
好太王は別名「広開土王」と呼ばれる高句麗の王。374年生、391年在位で412年没。広開土王というのは「すごい領土を広げた!」という意味で、その名に恥じない結果を残しています。その好太王の子供の長寿王が立てた「父の偉業を残す碑」が「好太王の碑」です。
●好太王の業績をたたえるためのもので多少の誇張があると考えるべき。
●碑は当時の「清」。現在の中国の吉林省で発見された。
●碑に書かれたもので文字数は短いが、歴史的価値は大きい。

性格・能力

395永楽5王は契丹族の稗麗を討つ(契丹は後の「遼」。高句麗の北西)
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡●破百殘、●●新羅、以爲臣民
▲訳:百済と新羅は高麗の民で朝貢をしていたが、391年に倭が●を渡り、百済と●●と新羅を破り、臣民とした。(●は削れて読めない碑文の文字)
396永楽6王は百済を討ち、成果をあげた
398永楽8王は粛慎を討ち、朝貢させた(粛慎は高句麗の北東の狩猟民族)
399永楽9百済が倭と内通。倭の進出に苦しむ新羅の支援を決定。
400永楽10新羅救援のための5万の兵を派遣。倭を退却させた。新羅は高句麗に朝貢しはじめる。
404永楽14倭が侵入した。
407永楽175万の兵を派遣し●●を討つ。
420永楽20東扶餘の国都にせまった(東扶余は高句麗のかなり北)。
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削れた文字

問題は「以辛卯年來、渡●破百殘、●●新羅、以爲臣民」です。

倭が渡った「●」はおそらく海です。これは推測ではありますが、かなり確実な推測です。問題は次の「●●」です。
伽耶と考えるのが妥当
当時朝鮮半島にあったのは百済と新羅と伽耶と高句麗しなかいのですから、当然伽耶です。伽耶かもしれないし任那かもしれません。とにかく朝鮮半島南部の伽耶のことです。

ここで問題になるのは順番です。当然ながら国力の強い順番に書かれるはずです。百済・伽耶・新羅……つまり新羅は当時、非常に弱い勢力しかなかったということです。
●新羅は後に半島を統一し、唐の属国になったとはいえ、唐の直接支配を拒んだ国です。経緯は以下。
●唐は高句麗と百済を攻めあぐねました。そこで唐は土地を接していない新羅を同盟を結び、百済と高句麗を挟み撃ちにしました。「遠交近攻」です。つまり離れた国と同盟し近接した国を侵略するという現在の中国と同じ手法です。
●新羅は首尾よく半島を統一し、今度は唐と敵対しました。それもかなりの狡猾な外交ですが、半島の地理を考えるとそれしか独立を保つ方法は無かったでしょう。

個人的コラム

日本が4世紀から5世に掛けて朝鮮半島に強い影響力があったのは間違いない。なにせ新羅と百済を臣民としたのだから。

でも、ここに韓国の学者さんは異を唱える。
証明にはならない?
問題となるのは391年に倭が百済と新羅を攻めて臣民としたという記述。勝利したことを「破」という文字を使って表現していますが、この文字「破」は高句麗の行動にしか使わないので、主語は「高句麗」とする説があります。この説に則ると「(高句麗が)海を渡って倭(を討った) 百済が新羅を破った」となるのです。
●高句麗の行動にしか「破」という文字を使わないとしていますが、朝鮮半島には史書がほとんどなく、残っている三国史記にもそういう傾向は無い(当たり前。というのも三国史記は12世紀に高麗が残した本だから)。
●この「破」が高句麗の行動に使う文字がという話はあくまで好太王の碑の中での話。そりゃ文字数が少ないし、高句麗の行動のことしか書いてないのだから、破という文字が高句麗の行動ばかりに使われているのは当たり前。
●「(高句麗が)海を渡って倭(を討った) 百済が新羅を破った」とするならば、「破」の主語は百済になってしまう。おかしい。無茶苦茶。
●この説を採用しているのは韓国だけ。
●この説を採用すると391年に倭は高句麗に攻められていることになるが、そんな記述は日本にもないし、朝鮮の三国史記や中国の歴史書にも無い。

いやいや、好太王の碑に不自然なところは無い
表にした年表を見れば分かりますが、問題の一文は「倭が新羅と百済を圧迫している」ので「追い返した」という英雄譚には絶対に必要な一文です。
●韓国式の解釈をする理由として「好太王の碑に好太王に都合の悪いことを書くわけがない」とするものもありますが、この一文が好太王の功績を説明するには必要な文であり(むしろ強調になっている)、この文が好太王の功績を傷つけるものではないのは明らかです。

逆に言えばそれだけ倭は強大な国だったという意味にもなります。
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