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日本と新羅の関係年表・新羅本紀より
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket概要
注意事項
●倭人は大和朝廷を表しているわけではなく、「日本の方から来た」くらいに考えること。
●年表に書いてあることは新羅本紀の記述であって事実というわけではない。
●新羅は後に国力が衰えて高麗に国を譲り渡すことになる。高麗は朝鮮半島を統一した新羅の「正統後継者」であるという証拠として新羅本紀を含む三国史記を作った。なので新羅本紀で新羅は歴史が長いという書き方をされているが誇張の可能性が高い。
●倭人は大和朝廷を表しているわけではなく、「日本の方から来た」くらいに考えること。
●年表に書いてあることは新羅本紀の記述であって事実というわけではない。
●新羅は後に国力が衰えて高麗に国を譲り渡すことになる。高麗は朝鮮半島を統一した新羅の「正統後継者」であるという証拠として新羅本紀を含む三国史記を作った。なので新羅本紀で新羅は歴史が長いという書き方をされているが誇張の可能性が高い。
新羅本紀のうち日本関連の記事抜粋(+重要事件)
BC57 | 赫居世(カクキョセイ)即位 |
元倭人の瓠公(ココウ)が臣下として活躍 | |
BC50 | 倭人が侵入 |
BC18 | 百済温祚即位 |
57 | 倭国の多婆那国から来た昔脱解(セクタレ)が王に |
59 | 倭国と国交樹立 |
121 | 倭人が東の海岸地域に侵入 |
123 | 倭国と講和 |
173 | 倭の女王卑弥呼が使者を送った 三国志からの引用?事実かは怪しい |
193 | 倭人が飢饉。避難民が新羅へ。 |
232 | 倭人が侵入。首都の金城を包囲。王の助賁尼師今(ジョフンニシキン)自ら出陣し撃退 |
233 | 倭人が東海岸に侵入。于老が船を焼き払って撃退。 |
249 | 倭人が于老を殺害。日本書紀の神功紀別注にも記述あり。 |
287 | 倭人が一礼部に侵入。千人を捕虜にして立ち去る。 一礼部の場所は不明。慶尚北道星州郡とする説がある。 |
292 | 倭人が沙道城(慶尚北道浦項市)を攻める。部下の大谷に救援させた。 |
294 | 倭人が長峯城を攻めた。 |
295 | 「百済と共に倭国を討ちたい」と王が言うと臣下が「新羅は海戦が下手だし百済は信用できない」と反対され断念。 |
300 | 倭国と使者を送りあう |
312 | 倭国が新羅王の娘を求めたが、部下の娘を偽って送った。 |
344 | 倭国がまた娘を求めたが、「もう嫁にやった」と断った。 |
345 | 倭国が国書を送り、新羅との国交を断絶した。 |
346 | 倭人が首都金城を包囲。倭人の食料が尽きて退却。そこを追撃。 |
364 | 奇策で倭人を撃退 |
391 | 倭国が高句麗まで侵入。 倭国が百済と新羅を臣民とする(好太王の碑文) |
393 | 倭人が首都金城を包囲。倭国が退却しようとしたところを追撃。大敗させた。 |
399 | 倭人が国境にあふれた。 (つまり新羅と倭国は国境を接していた。伽耶は倭国だったということ) |
400 | 倭人が首都金城を包囲。高句麗の援軍が来ると任那伽耶に撤退。 |
402 | 倭国に奈勿王の子の未斯欣を人質として送った。 |
405 | 倭人が明活城(慶州市普門里)を攻める。退却しようとした倭人を追撃して撃破。 |
407 | 倭人が侵入(二回) |
408 | 実聖尼師今(ジッセイニシキン)が対馬で戦争準備している倭人を攻めようと考えるが臣下に止められ断念。 |
418 | 高句麗と倭国に送った人質が帰ってきた。 |
431 | 倭人が東海岸に侵入。明活城(慶州市普門里)を包囲するが、結局退却。 |
440 | 倭人が南と東に侵入。 |
444 | 倭人が首都金城を包囲。食料が尽きて退却した倭兵を追撃するも失敗し、新羅は兵士の大半を失う。 |
459 | 倭人が船で東海岸に侵入。月城を包囲。退却時に追撃する。 |
462 | 倭人が侵入。活開城を破って1000人を捕虜として連れて行った。 |
463 | 倭人が歃良城(釜山の北の梁山)を攻めるが攻めきれなかった |
473 | 倭人が東海岸を攻める |
477 | 倭人が五道(?)を攻める |
482 | 倭人が侵入 |
486 | 倭人が侵入 |
500 | 倭人が長峯鎮(?)を攻め落とした。 |
528 | 新羅が仏教を公認 |
562 | 伽耶(任那・加羅)を新羅が滅ぼす |
660 | 百済の滅亡 |
663 | 白村江の戦い(百済の復興を目的とした日本と唐の戦い) |
670 | 倭が国号を日本とする(新羅本紀に言うには)。 |
698 | 日本から使者が来る。祟礼殿で |
731 | 日本が船300隻で東に侵入。 |
個人的コラム
全体的に日本は非常に積極的
この羅列を見ると日本がいかに古代において朝鮮半島に進出しようとしていたか分かる。日本が祟神天皇→ヤマトタケル→神宮皇后の時代に国内で領地を広げていたのは分かるが、半島まで手を伸ばしていたのか、それとも「倭」といっても九州や出雲の氏族であって、「大和朝廷」ではないのか。
微妙。
結論はいずれ。
そもそも新羅本紀が日本書紀・古事記と同様に「年紀の水増し」があるというのは十分にありうる。というか、あっても驚かないし、逆に無い方が驚く。
ハッキリ言えるのは6世紀以降の日本の衰退
6世紀までは明らかに日本は上り調子だった。朝鮮半島に攻めまくっていた。それが新羅が国力をつけて来たのかもしれない。もしくは外交で負けたのかもしれない。
新羅は7世紀には間違いなく中国に軍事を頼るようになる。高句麗の討伐を頼んだり、百済の討伐を頼んだり。そういう外交戦略に完敗したのかもしれない。
この羅列を見ると日本がいかに古代において朝鮮半島に進出しようとしていたか分かる。日本が祟神天皇→ヤマトタケル→神宮皇后の時代に国内で領地を広げていたのは分かるが、半島まで手を伸ばしていたのか、それとも「倭」といっても九州や出雲の氏族であって、「大和朝廷」ではないのか。
微妙。
いろんなケースが考えられる。
●九州や出雲の氏族が単独で活動していた。
●大和朝廷が活動していた。大和朝廷が出兵した。
●大和朝廷は一定の影響力があったが、共和国の形式だったために拘束力が無かった。つまり九州や出雲の氏族の単独行動。
●九州や出雲の氏族が単独で活動していた。
●大和朝廷が活動していた。大和朝廷が出兵した。
●大和朝廷は一定の影響力があったが、共和国の形式だったために拘束力が無かった。つまり九州や出雲の氏族の単独行動。
結論はいずれ。
そもそも新羅本紀が日本書紀・古事記と同様に「年紀の水増し」があるというのは十分にありうる。というか、あっても驚かないし、逆に無い方が驚く。
ハッキリ言えるのは6世紀以降の日本の衰退
6世紀までは明らかに日本は上り調子だった。朝鮮半島に攻めまくっていた。それが新羅が国力をつけて来たのかもしれない。もしくは外交で負けたのかもしれない。
新羅は7世紀には間違いなく中国に軍事を頼るようになる。高句麗の討伐を頼んだり、百済の討伐を頼んだり。そういう外交戦略に完敗したのかもしれない。
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- Page1 古代日本史年表
- Page2 日本と新羅の関係年表・新羅本紀より
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- Page4 日本人の遺伝子の起源について Y染色体ハプロタイプの簡易一覧
- Page5 稲の遺伝子:日本の稲は中国から朝鮮半島を経由しないで伝わったことが判明
- Page6 好太王の碑
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- Page8 NHKスペシャル シリーズ遷宮 出雲大社オオクニヌシの謎のまとめ
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