垂仁天皇(十八)殉葬の禁止

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垂仁天皇(十八)殉葬の禁止

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原文

廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彦命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彦命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、詔群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。」

現代語訳

即位28年冬10月5日。天皇の同母弟の倭彦命(ヤマトヒコノミコト)が亡くなりました。
11月2日。倭彦命を身狹(ムサ=大和国高市郡=現在の奈良県橿原市見瀬町)の桃花鳥坂(ツキサカ)に葬りました。それで近習者(チカクツカエシマツリヒト=側に仕えていた人)を集めて、全員を生きながら、墓の域(メグリ=周囲)に埋めて立たせました。何日か経っても死なないでいて、昼も夜も泣きうめいていました。ついに死んで朽ちて腐りました。犬・カラスが集まって、それらを食べました。天皇はこの泣きうめく声を聞いて、とても悲しく思いました。それで天皇は群卿(マヘツキミタチ=部下たち)に言いました。
「生きているときに仕えていたからといって、死んで殉死させるのは、とても痛々しいではないか。それが古い風(ノリ=法=風習)といっても、良くないものに従うことはないだろう。これからは、よくよく話し合って殉死するのは止めなさい」
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解説

殉葬について
どうやら日本には殉葬の風習があったらしいのです。魏志倭人伝にも卑弥呼が死んだ後に殉葬をしていると書いてあります。ちなみに卑弥呼の死は248年。垂仁天皇の時代は3世紀後半かと思われます。殉葬の風習があったというのは十分ありうる話です。
ところが、殉葬してある「古墳」がないのです。つまり「本」には書いてあるが、物証が無い。
殉葬の方法
ところで上記の記述からの推測ですが、殉葬といっても、生き埋めではなく、首から上は地上に出ていたんじゃないでしょうか? そうでないと「昼も夜も泣きうめく」ことが出来ません。手足を縛って、首から上か、上半身だけか、出して埋めて、死ぬのを待つ。そんで死んだら犬やカラスが食べる。土の中に埋めてしまったら犬やカラスはほじくり返せませんから。

埴輪は殉葬の代わりに作られたものです。この埴輪は普通は古墳の周囲に「置き」ます。埴輪を殉葬の代わりに「置いた」ならば、当然、殉葬の人間も古墳の周囲に「置いた」はずです。つまり「生き埋め」ではなく、首から上か上半身を出して「埋めた」のではないかと思います。

ちなみに、最近は古墳の土中に「埴輪の破片」が見つかっています。これも「古墳の中に人柱」を埋めた風習の名残で、人柱の代わりに埴輪で代用したのではないかと思います。
話し合いなさい
天皇も神も、強権を持っているように思えますが、それはのちの話で、日本人の行動方針は「和」です。みんなで仲良く、決め事は「全会一致」が基本。よって天皇は命令するのではなく、促すだけ。鶴の一声ではないわけです。だから「殉葬の禁止について話し合いなさい」という発言になります。
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