伊勢国の能褒野陵に葬りました

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景行天皇(四十)伊勢国の能褒野陵に葬りました

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現代文

天応は(ヤマトタケルの死を)聞いて、寝込んでしまって、何も手につかなくなりました。食事をしても味が甘くないほどです。昼夜ずっと喉咽(ムセビ)して、泣き悲しみ、胸を打ちました。とても嘆いて言いました。
「我が子、小碓王(オウスノミコ)は昔、熊襲が叛いた日は、未だに総角(アゲマキ=古代の成人がやっていた髪型=髪を真ん中で分けて、耳の後ろでまとめるあの髪型)をしていない(くらいに子供)のに、長く征伐(タタカイ)に関わり、常に(天皇の)左右(カタワラ=傍)にいて、私が不及(カケタルコト)を補った。しかし、東の夷(ヒナ)が騒ぎ動くと、討つものがいなかった。愛情を忍んで(我が子を可愛いと思う気持ちを我慢して)、賊(アタ)の境に入らせた。一日とて(我が子を)顧みないことは無かった。朝夕に彷徨い、帰る日を佇(ツマダチ=たたずんで)んで待っていた。どんな禍(ワザワイ)か、何の罪があるのか、不意之間(ユクリモナク=思いがけず)、我が子が亡くなってしまった。これ以後、誰とともに鴻業(アマツヒツギ)を治めるのか」
すぐに群卿(マヘツノキミタチ)に詔して、百寮(ツカサツカサ=官僚)に命じて、伊勢国(イセノクニ)の能褒野陵(ミボノノミササギ)に葬りました。
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解説

古事記とは違う
そもそも古事記では小碓(=ヤマトタケル)が兄の手足を千切って惨殺して、川に放り投げるという悪童ぶりを発揮したために、厄介払いで熊襲遠征に放り込まれたというのに、日本書紀では、兄殺しのエピソードは無く、父景行天皇に疎まれるという設定もありません。これも「ヤマトタケル架空の人物説」の根拠となっています。
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原文

天皇聞之、寢不安席、食不甘味、晝夜喉咽、泣悲摽擗。因以、大歎之曰「我子小碓王、昔熊襲叛之日、未及總角、久煩征伐、既而恆在左右、補朕不及。然、東夷騷動勿使討者、忍愛以入賊境。一日之無不顧、是以、朝夕進退、佇待還日。何禍兮、何罪兮、不意之間、倐亡我子。自今以後、與誰人之、經綸鴻業耶。」卽詔群卿命百寮、仍葬於伊勢國能褒野陵。
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