玉田宿禰の酒宴と尾張連吾襲の殺害

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允恭天皇(七)玉田宿禰の酒宴と尾張連吾襲の殺害

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原文

五年秋七月丙子朔己丑、地震。先是、命葛城襲津彦之孫玉田宿禰、主瑞齒別天皇之殯。則當地震夕、遣尾張連吾襲、察殯宮之消息、時諸人悉聚無闕、唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言「殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。」則亦遣吾襲於葛城、令視玉田宿禰、是日、玉田宿禰、方集男女而酒宴焉。吾襲、舉狀、具告玉田宿禰。宿禰則畏有事、以馬一匹授吾襲爲禮幣、乃密遮吾襲而殺于道路、卽逃隱武內宿禰之墓域。

現代語訳

即位5年秋7月14日。地震がありました。これ以前のこと、葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)の孫の玉田宿禰(タマタノスクネ)に命じて瑞歯別天皇(ミズハワケノスメラミコト=反正天皇)の殯(モガリ=墓に入れる前に一時的に安置する場所)の担当としました。地震があった夕方に尾張連吾襲(オワリノムラジアソ)を派遣して殯宮(モガリノミヤ)の消息(アルカタチ)を視察させました。全て問題なく壊れてもいませんでした。ただ、玉田宿禰(タマタノスクネ)だけがいませんでした。吾襲(アソ)は報告しました。
「殯宮大夫(モダリノミヤノカミ=殯宮の責任者)の玉田宿禰は殯のところに見えませんでした」
吾襲(アソ)を葛城に派遣して玉田宿禰(タマダノスクネ)を見に行かせました。その日は玉田宿禰は男女を集めて酒宴をしていました。吾襲はこの状況を問題視して玉田宿禰に言いました。宿禰は一大事になってしまうのではないかと恐ろしくなって、馬一匹を吾襲に授けて礼幣(イヤノマイ=謝礼のようなもの=口止料)としました。しかし密かに吾襲の帰り道で待ち伏せして、殺してしまいました。そして逃げて、武内宿禰(タケノウチノスクネ)の墓に隠れました。
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解説

地震から始まる玉田宿禰の破滅
日本最古の地震の記述です。おそらく5世紀くらいでしょう。地震があったから当然、反正天皇の遺体が安置してある「モガリの宮」が壊れたかもしれない。そこで部下の「アソ」を視察に行かせた。モガリってのは遺体が白骨化するまで放置しておく場所で、白骨化しきったら墳墓へと移動させます。おそらく「復活」するかもしれないから、墓に入れなかったんでしょう。ちなみに復活してほしくない遺体はサッサと墳墓に入れる傾向があります。

それでモガリ宮に行ってみると、担当者のハズの玉田宿禰がいない。玉田宿禰は葛城系の氏族で、葛城で宴会をしていた。
葛城専横を表しているのではないか?
允恭天皇の母親は葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)の娘の磐之媛です。葛城氏はかなり強い権力を持っていたようです。この後も葛城vs非葛城の文字通り血で血を洗う戦いが繰り広げられます。その中で葛城の一人、玉田宿禰は前の天皇の反正天皇(母親は磐之媛)のモガリ宮の仕事を放り出して宴会をしていたのですね。舐めている。さすがに允恭天皇も怒るでしょうよ。親類縁者とて、天皇を軽んじるということは、組織運営に支障をきたします。

玉田宿禰の「舐めた態度」は葛城のそういった専横の証拠でしょう。
●ちなみに、葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)は武内宿禰の子です。玉田宿禰が武内宿禰の墓へと逃げたのには、そういう経緯があるのではないかと思います。
●当時、「墓」は人手を集める「口実」だったようで、墓を作るフリをして人を集めて、その人を兵にするということがありました。墓に逃げたというのはそういう「ニュアンス」があったのではないかと思います。
●武内宿禰の墓があるということは、武内宿禰が実在したということになる…かどうかは分かりません。例えば、ヤマトタケルの墓の「白鳥陵」を仁徳天皇は「空っぽ」と言っています。つまり遺体が無いが墓を作るという風習というか事情……があったのではないかと思うのです。
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