銅鳥居(出雲大社)

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銅鳥居(出雲大社)

投稿日時:2018-04-02 11:00:20
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概要

場所出雲大社の拝殿の前
創建寛文六(1666)年六月
寄贈者毛利綱広(長州藩2代目藩主)

出雲大社の拝殿前にある青緑の鳥居。実質、出雲大社の神域の境目となる重要な鳥居。銅の鳥居としては最古のものらしい。寄進は毛利綱広。

物語・由来

毛利綱広は藩政を確立させた有能な人物らしい。毛利綱広の母親は喜佐姫(龍昌院)。彼女の父親が結城秀康。結城秀康は徳川家康の子。ってことは毛利綱広は徳川家康のひ孫にあたる(と同時に毛利輝元の孫)。しかしながら毛利の子孫という自負も強く、徳川に従っていることを恥として病気と称して江戸に上らないことがあったとか。問題行動は彼が徳川の血を引いていることを理由に黙認されたのですが、部下は彼の行動を恐れて隠居を要求した。

で、彼が出雲大社に寄贈したのは毛利の本性が「大江」で、大江をたどると出雲国造家の先祖でもある「アメノホヒ」にあたるからです。ちなみに銅の鳥居には「大江綱広」と書いてある。
●大江の先祖は本当は曖昧で、毛利元就の時代に大江の先祖はアメノホヒと設定したよう。これは毛利が出雲地域を支配するための大義名分を用意したということと思われる。毛利綱広がこの考えを踏襲したのも「俺は毛利だ」という自負から、かも。

歴史背景

出雲大社はスサノオの神社
柱には感じがズラズラとならんでいて、この世界の成り立ち、つまり神話が書かれているんです。イザナギイザナミが結ばれて、アマテラスツキヨミスサノオが生まれたと書いてあります。その途中に、「スサノオは雲陽大社の神なり」と書いてあります。つまり、1666年において出雲大社の神はスサノオだったわけです。いや、正確にはこのころは「出雲大社」とすら呼ばれていません。杵築大社(キヅキタイシャ)でした。
現在の大国主に変わるのは江戸時代の途中。
出雲大社と名前が変わるのは明治(だったような)。
それまでは仏教施設の多い場所で、神道はすたれていたほど。
おそらく戦国時代に京文化が地方に出て、江戸時代に儒教を土台とした国学が流行ったことで見直したあったんでしょうね。
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