アシヒトツアガリ宮で食事

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アシヒトツアガリ宮で食事

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原文

かれ、豊国の宇沙に到りましし時、その土人、名は宇沙都比古・宇沙都比売の二人、足一騰宮を作りて、大御饗献りき。其地より遷移りまして、竺紫の岡田宮に一年坐しき。またその国より上り幸でまして、阿岐国の多祁理宮に七年坐しき。またその国より遷り上り幸でまして、吉備の高島宮に八年坐しき。

現代語訳

豊の国の宇沙に着いたとき、宇沙の住民の宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)が足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って大御饗(=食事)を献上しました。

その土地…宇沙から出発して、筑紫の岡田宮に着いて、一年滞在しました。

筑紫の岡田宮を出発して、
安芸国の多祁理宮(タケリノミヤ)に着いて
七年滞在しました。

その国…安芸国を出発して、
吉備国の高島宮(タカシマノミヤ)に着いて
八年居ました。
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解説

移動経路
熊本県(日向)

大分県(宇沙)

福岡県(筑紫の岡田宮)

広島県(安芸の多祁理)

岡山県(吉備の高島宮)

こうしてみると、日向から海岸に沿って瀬戸内海を通る、割と普通の経路な感じがします。

ウサツヒコウサツヒメは「宇沙の津の彦(日子)」と「宇沙の津のヒメ」で、宇佐は地名、津は港です。宇佐の港を統治していた豪族とされます。この豪族がイワレビコイツセがやってくると、わざわざ「アシヒトツアガリ宮」を建てて、食事をふるまうなど、歓迎します。これは単にこの豪族が大和に降ったと考えるのが一般的です。
アシヒトツアガリノミヤ
足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)は本居宣長によると「一方の足が川に、一方の足が陸にある」ことが由来とあります。本居宣長は江戸時代の人物で、果たしてこの説が正しいのかどうかはなんとも言えませんが、参考に。
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