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太歳甲寅11月〜戊午年春3月
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十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫国岡水門。
十有二月丙辰朔壬午、至安藝国、居于埃宮。
乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備国、起行館宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。
戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速国、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。
三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內国草香邑靑雲白肩之津。
十有二月丙辰朔壬午、至安藝国、居于埃宮。
乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備国、起行館宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。
戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速国、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。
三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內国草香邑靑雲白肩之津。
現代語訳
太歳甲寅11月
11月の9日に神武天皇は筑紫国(ツクシノクニ)の岡水門(オカノミナト=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しました。
太歳甲寅12月
12月の27日に安芸国の埃宮(エノミヤ=広島県府中町)に滞在しました。
乙卯年春3月
乙卯年(キノトウノトシ)の春三月の6日に吉備国(キビノクニ)に入り、行館(カリミヤ=仮宮)を作って滞在しました。これを高嶋宮(タカシマノミヤ)といいます。三年滞在している間に、船を揃え、兵食(カテ)を備え、ひとたび兵を挙げて天下(アメノシタ)を平定しようと神武天皇は思っていました。
戊午年春2月
戊午年(ツチノエウマノトシ)の春2月の11日。皇師(ミイクサ)はついに東へと向かいました。舳艫(ジクロ=船首と船尾)がぶつかり合うほどに沢山の船団でした。難波之碕(ナニワノサキ)に到着すると、潮が速いところがあった。それでこの場所を浪速国(ナミハヤノクニ)といいます。また浪花(ナミハナ)といいます。今、難波と呼ばれるのはこれらが訛ったものです。
戊午年春3月
三月の10日。流れを遡(サカノボ)って、河内国(カワチノクニ)草香邑(クサカムラ)靑雲(アオクモ)白肩之津(シラカタノツ)に到着しました。
11月の9日に神武天皇は筑紫国(ツクシノクニ)の岡水門(オカノミナト=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しました。
太歳甲寅12月
12月の27日に安芸国の埃宮(エノミヤ=広島県府中町)に滞在しました。
乙卯年春3月
乙卯年(キノトウノトシ)の春三月の6日に吉備国(キビノクニ)に入り、行館(カリミヤ=仮宮)を作って滞在しました。これを高嶋宮(タカシマノミヤ)といいます。三年滞在している間に、船を揃え、兵食(カテ)を備え、ひとたび兵を挙げて天下(アメノシタ)を平定しようと神武天皇は思っていました。
戊午年春2月
戊午年(ツチノエウマノトシ)の春2月の11日。皇師(ミイクサ)はついに東へと向かいました。舳艫(ジクロ=船首と船尾)がぶつかり合うほどに沢山の船団でした。難波之碕(ナニワノサキ)に到着すると、潮が速いところがあった。それでこの場所を浪速国(ナミハヤノクニ)といいます。また浪花(ナミハナ)といいます。今、難波と呼ばれるのはこれらが訛ったものです。
訛は與許奈磨盧(ヨコナマル)と読みます。
戊午年春3月
三月の10日。流れを遡(サカノボ)って、河内国(カワチノクニ)草香邑(クサカムラ)靑雲(アオクモ)白肩之津(シラカタノツ)に到着しました。
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解説
難波はこの頃からナニワだったのですねぇ
浪(ナミ)が速(ハヤイ)で、ナミハヤ。それが徐々に訛ってナニワとなり、そこに難波という字が当てられたわけです。
ところで、「ナミ」という音は日本語です。大和言葉というやつです。「ハヤ」もそうです。中国語ではありません。そこに漢字が入って来て、同じ意味を持つ「浪」=「ナミ」となったわけですが、だとすると、漢字は表意文字として入って来た事に成ります。イラストに近い感覚です。
浪(ナミ)が速(ハヤイ)で、ナミハヤ。それが徐々に訛ってナニワとなり、そこに難波という字が当てられたわけです。
ところで、「ナミ」という音は日本語です。大和言葉というやつです。「ハヤ」もそうです。中国語ではありません。そこに漢字が入って来て、同じ意味を持つ「浪」=「ナミ」となったわけですが、だとすると、漢字は表意文字として入って来た事に成ります。イラストに近い感覚です。
●もしかすると、古事記で送り仮名もすべて漢字の「表音文字」で表現したのは当時としては画期的なことだったのかもしれません。
●朝鮮半島では漢字をまるまる受け入れたのに対して、日本は漢字を道具として利用しています。その後、日本は漢字から純粋な表音文字である「ヒラガナ」「カタカナ」を生み出します。
●朝鮮半島では漢字をまるまる受け入れたのに対して、日本は漢字を道具として利用しています。その後、日本は漢字から純粋な表音文字である「ヒラガナ」「カタカナ」を生み出します。
個人的コラム
記紀で滞在期間が違う
古事記ではアシヒトツアガリ宮で食事にあるように安芸国で8年、吉備国で7年と有ります。
日本書紀では安芸国は12月から翌年の三月ですから、四ヶ月だけです。吉備国では3年となっています。この違いはなぜ起きたのか???
これは完全な推測ですが
まずひとつとして二倍歴です。魏志倭人伝では「倭は春と秋で一年としていた」らしいのです。これを二倍歴と捉えるかはまだまだ議論の余地のある話なのですが、初期天皇の年齢は二倍と考えると自然です。朝鮮征伐が行われた応神天皇の次の仁徳天皇が最後の二倍歴年齢であることを考えると、朝鮮から中国式の暦が入って来てそれで、現在の数え方と同じになったというのが妥当に思います。だからこの神武天皇の時代はまだ二倍歴です。
もう一つは、神武天皇が海運業者だったということです。神武天皇は騎馬民族ではない、どころではなくバリバリの海洋民族です。移動はすべて船です。神武天皇は日向を出てから、筑紫を経由して安芸と吉備にやってきました。
さて海運業者は当然、A地点とB地点を船で繋ぐのが仕事です。このAB地点が安芸と吉備でした。よって安芸に7年、吉備に8年といっても、単純に合計出来るものではないのではないか?と考えています。安芸だけを活動拠点にしていたのが1年で、次の数年は安芸と吉備を活動拠点にしていた、というのがこの7年、8年の計算の結果ではないかと。
しかも上の二倍歴が関わって来ます。日本書紀では安芸に4ヶ月、吉備に2年11ヶ月です。倍にしても古事記の「8年」には遠い気もしますが、これは二倍暦の何処に「年始」があるかによっては合致します。
乙卯年春3月から戊午年春2月までの滞在です。
例えば二倍歴として6月と12月が年始とします。すると
乙卯6月 12月
丙辰6月 12月
丁巳 6月 12月
となります。
なら合計6年じゃないか?となりそうですが、よく考えれば、この前後に乙卯年春3月〜6月と、戊午年春1月〜2月があるので数え年で「8年」となるわけです。
ちなみに日本書紀では中国式の暦、古事記は日本古来の暦で書かれていることになります。
参考:神武天皇は実在したか??
古事記ではアシヒトツアガリ宮で食事にあるように安芸国で8年、吉備国で7年と有ります。
日本書紀では安芸国は12月から翌年の三月ですから、四ヶ月だけです。吉備国では3年となっています。この違いはなぜ起きたのか???
これは完全な推測ですが
まずひとつとして二倍歴です。魏志倭人伝では「倭は春と秋で一年としていた」らしいのです。これを二倍歴と捉えるかはまだまだ議論の余地のある話なのですが、初期天皇の年齢は二倍と考えると自然です。朝鮮征伐が行われた応神天皇の次の仁徳天皇が最後の二倍歴年齢であることを考えると、朝鮮から中国式の暦が入って来てそれで、現在の数え方と同じになったというのが妥当に思います。だからこの神武天皇の時代はまだ二倍歴です。
もう一つは、神武天皇が海運業者だったということです。神武天皇は騎馬民族ではない、どころではなくバリバリの海洋民族です。移動はすべて船です。神武天皇は日向を出てから、筑紫を経由して安芸と吉備にやってきました。
さて海運業者は当然、A地点とB地点を船で繋ぐのが仕事です。このAB地点が安芸と吉備でした。よって安芸に7年、吉備に8年といっても、単純に合計出来るものではないのではないか?と考えています。安芸だけを活動拠点にしていたのが1年で、次の数年は安芸と吉備を活動拠点にしていた、というのがこの7年、8年の計算の結果ではないかと。
計算
例えば……
安芸1年+安芸と吉備6年+吉備2年
という計算。安芸と吉備で重複している期間がある。海運業者なら当然ではないか??
例えば……
安芸1年+安芸と吉備6年+吉備2年
という計算。安芸と吉備で重複している期間がある。海運業者なら当然ではないか??
しかも上の二倍歴が関わって来ます。日本書紀では安芸に4ヶ月、吉備に2年11ヶ月です。倍にしても古事記の「8年」には遠い気もしますが、これは二倍暦の何処に「年始」があるかによっては合致します。
乙卯年春3月から戊午年春2月までの滞在です。
例えば二倍歴として6月と12月が年始とします。すると
乙卯6月 12月
丙辰6月 12月
丁巳 6月 12月
となります。
なら合計6年じゃないか?となりそうですが、よく考えれば、この前後に乙卯年春3月〜6月と、戊午年春1月〜2月があるので数え年で「8年」となるわけです。
ちなみに日本書紀では中国式の暦、古事記は日本古来の暦で書かれていることになります。
参考:神武天皇は実在したか??
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神武天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page1 即位前紀−1 十五歳で太子(=日嗣の皇子)となり
- Page2 即位前紀−2一百七十九萬二千四百七十餘歲
- Page3 太歳甲寅冬十月−1 椎の木の竿の先を渡して
- Page4 太歳甲寅冬十月−2菟狹津媛と天種子命
- Page5 太歳甲寅11月〜戊午年春3月
- Page6 戊午年夏四月 退却の判断
- Page7 五月丙寅朔癸酉 五瀬命の雄叫びと死
- Page8 六月乙未朔丁巳(一)稻飯命と三毛入野命の死
- Page9 六月乙未朔丁巳(二)高倉下の夢
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