椎の木の竿の先を渡して

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太歳甲寅冬十月−1 椎の木の竿の先を渡して

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原文

其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是国神、名曰珍彦、釣魚於曲浦。聞天神子來、故卽奉迎。」又問之曰「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彦(椎、此云辭毗)、此卽倭直部始祖也。

現代語訳

太歳甲寅冬十月
その年(太歳甲寅)の冬10月の5日。天皇は自ら、皇子たちと船の先導を連れて、東へと向かいました。まず、速吸之門(ハヤスイノト)にたどり着きました。そのとき一人の漁人(アマ=漁師)がいて、小舟に乗っていました。天皇(スメラミコト)はこの漁人を呼び寄せて、尋ねました。
「お前は誰だ?」
答えて言いました。
「わたしは、国津神(地祇)です。
名は珍彦(ウズヒコ)といいます。
曲浦(ワニノウラ)で魚を釣っています。
天神子(アマツカミノミコ)が来ると聞いて、迎えに来ました」
また天皇(スメラミコト)は尋ねました。
「お前は、私を案内できるか?」
答えて言いました。
「案内しましょう」
天皇(スメラミコト)は命じて、椎の木の竿(=船のオールのことか?)の先を渡して、皇船(ミフネ)に招き入れました。そして海の導者(ミチビキヒト=先導)となりました。このことにちなんでこの海人を椎根津彦(シヒネツヒコ)といいます。
椎は「辭毗(シヒ)」と読みます。

この人物は倭直部(ヤマトアタイラ)の始祖(ハジメノオヤ)です。
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解説

椎根津彦は神武天皇にこの後も付いて行き、「九月甲子朔戊辰(二)椎根津彦と弟猾に変装させて」で登場します。
倭直(ヤマトアタイ)の先祖とされるのも、このままついていって大和に居着いたから、じゃないでしょうか。
太歳甲寅冬十月
太歳は木星のことで、木星の位置から暦を表現するという方法は、中国の史書でもなく、日本書紀独特の手法となっています。

朝鮮の歴史書の三国史記の百済本紀にも同様の暦表記があるので、朝鮮の影響と言うこともありえます。

ただし、三国史記の成立は12世紀で、日本書紀の成立は8世紀と、三国史記日本書紀の記述を参考にした可能性もありますし、仮に三国史記のネタ本として百済本紀が非常に古い史書であったとしても、このあたりはハッキリしない。

また、朝鮮史観特有の「朝鮮は発展していた」「朝鮮は正しい」が前提とした歴史観が非常に強いので、このあたりのことは、本当に眉唾です。

個人的コラム

神武天皇は海洋民族だよね
神武天皇は皇子と船員を連れて、故郷を出発しました。
よく大和朝廷は騎馬民族という意見がありますが、記紀を何処をどう読んでも、騎馬民族という結論には至らない。記紀では、馬が日本に伝わるのは応神天皇となっているので、記述通りならあり得ない。
●日本では大昔には馬が居たらしいが、それは野生の馬で多少は飼われていたかもしれない。骨は出るが騎乗するための馬具が出ない。
古墳時代の中期に入ると馬の骨と馬具などが出る。関東が中心。
●この時代に朝鮮半島から来たとされるが、それなら西日本が中心でないとおかしいのではないか??
●蝦夷との戦争で馬が活用されたのか?
●わたしは蝦夷から馬が伝わったのではないか?と疑っている。
●大和朝廷は東北の蝦夷を征伐した「現実的理由」に金と馬があったのではないか? だから関東に馬がたくさん出てくるのではないか??
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