アケタツ王とウナカミ王

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アケタツ王とウナカミ王

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原文

かれ、曙立王に科せてうけひ白さしめて、「この大神を拝むによりて誠に験あらば、この鷺巣池(サギスノイケ)の樹に住む鷺や、うけひ落ちよ」とまをさしめき。かく詔りたまひし時、うけひしその鷺、地(ツチ)に堕ちて死にき。また「うけひ活きよ」と詔りたまひき。爾(シカ)すれば更に活きぬ。また甜白梼(アマカシ)の前なる葉広熊白梼(ハビロクマカシ)をうけひ枯らし、またうけひ生かしき。ここに名をその曙立王(アケタツノミコ)に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉(ヤマトハシキトミトヨアサクラノ)曙立王(アケタツノミコ)と謂ひき。すなはち曙立王・菟上王(ウナカミノミコ)、二王をその御子に副へて遣はしし時、「那良戸(ナラト)よりは、跛(アシナヘ)・盲(メシヒ)遇はむ。大坂戸(オオサカト)よりも跛(アシナヘ)・盲(メシヒ)遇(ア)はむ。ただ木戸(キト)ぞこれ掖月(ワキヅキ)の吉き戸」と卜(ウラナ)ひて出で行かしし時、到ります地ごとに品遅部を定めたまひき。
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現代文訳

垂仁天皇はアケタツ王に命じて
「この大神(=オオクニヌシ)を拝むことで、本当に祟りを払う効果があるのならば、この鷺巣池の樹の鷺よ! 誓約 落ちろ!」
と言わせました。

すると、誓約をした鷺が地面に落ちて死んでしまった。

誓約 生きろ!!」
と唱えると鷺は生き返りました。

今度は甘樫の丘の葉の広い樫の樹を誓約の力で枯らし、また生き返らせました。

それで、アケタツ王は倭者師木登美豊朝倉曙立王(ヤマトハシキトミトヨアサクラノアケタツノミコ)と呼ばれるようになりました。

すぐにアケタツ王と菟上王(ウナカミ)がホムチワケ御子と共に出雲へと派遣しました。

そのとき、
「奈良の道には足の悪い人や目の見えない人が居るだろうから不吉だし、大坂の道にも足の悪い人や目の見えない人が居て不吉だ。
紀伊の道なら、縁起がいい」
と占った。

一行は土地土地に品遅部を置きました。
日本書紀の対応箇所
なし
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解説

誓約、すごいな
日本人が言葉そのものに力があると考えていたと分かるシーン。この魔力が神官だとか天皇だとかの特殊な階級の人にだけあったとされたのか、誰にでもそういう魔力はあったのか……そこんところは勉強不足でハッキリしないです。
倭者師木登美豊朝倉曙立王
この長ったらしい上にこれまでのストーリーとは何ら関係の無いネーミング。ちなみに、倭、師木、登美、朝倉は全て奈良の地名。このあたりに影響力があったという意味かな。
足なえと盲人について
障害者と会うと縁起が悪いと考えていたらしい。時代ですよ。そりゃまぁ仕方が無いですね。
品遅部
ホムチはホムチワケ王の名前から。部は今の日本でもある「営業部」「開発部」の「部」と同じで役割がある集団というニュアンス。品遅部は「ホムチワケ王をお世話するグループ」という意味でしょうね。
日子坐王の子孫」ではアケタツ王の子孫とされています。

またアケタツ王とウナカミ王はヒコイマス王の子の大俣王(オオマタノミコ)の子供でニ柱は兄弟です。系譜でいうと開化天皇の曾孫になります。
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