酒折宮での老人と歌

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酒折宮での老人と歌

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原文

すなはちその国より越えて甲斐に出でまして、酒折宮(サカオリノミヤ)に坐しし時、歌曰ひたまはく、

新治(ニイバリ) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

とうたひたまひき。ここにその御火焼(ミヒタキ)の老人、御歌に続ぎて歌ひて曰はく、

日日(カガ)並べて 夜には九夜 日には十日を

とうたひき。ここを以ちてその老人を誉めて、即ち東国造を給ひき。

現代文訳

甲斐の国へと出て酒折宮へとたどり着いたときに、ヤマトタケルは歌を歌いました。

新治や筑波を過ぎて、いくつの夜を過ごしたろう

すると火の番をしていた老人が歌に続けて歌いました。

日々を重ねて、夜は九夜、日は十日

ヤマトタケルはその老人を褒め、東の国造に任命しました。
日本書紀の対応箇所
景行天皇(三十五)新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
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解説

酒折宮は甲府市酒折町の酒折神社。足柄から見ると北西。富士山の北。
新治や筑波は新治は茨城県真壁郡の東部。筑波は茨城県筑波郡のこと。

上の二つの土地を見ると、相当に離れている。そもそも足柄山を通ったのは「上る」、つまり大和に帰るためだったのに、また酒折宮から茨城の筑波へと行くなんて、無茶苦茶。

歌について
ここでの歌は後の五七七調の原型とされるものです。上記のような無理なヤマトタケルの東国移動は歌や物語が昔からか、それとも当時創作されたかはともかくとして、有名な物語として成立していて、ヤマトタケルの物語の中に矛盾しようがなんだろうか関係なくはめ込んだと考える方が、シックリ来ます。
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