国主照古王牡馬壱疋牝馬壱疋

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国主照古王牡馬壱疋牝馬壱疋

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原文

また百済の国主(コニキシ)照古王(セウコオウ)、牡馬(ヲマ)壱疋(ヒトツ)・牝馬(メマ)壱疋(ヒトツ)を阿知吉師(アチキシ)に付けて貢上りき。この阿知吉師は阿直史(アチキノフビト)等の祖。また横刀と大鏡とを貢上りき。

現代文訳

百済の王である照古王(ショウコオウ)が牡馬一頭・雌馬一頭をアチキシと共に日本に献上しました。

このアチキシは阿直史(アチキノフビト)たちの祖先です。

また照古王は刀と鏡を献上しました。

解説

照古王
百済の王の照古王は百済代13代の王の近肖古王のことでこの近肖古王の在位は346年から375年。三韓征伐は新羅本紀に描かれる「346年」のことだと思われるので、この記述は辻褄が合う。

参考:神功皇后の実在性について

コニキシ
この言葉は朝鮮語とされる。これだけでも「日本語」と「朝鮮語」が違うものだと分かる。ちなみにコニキシとアチキシの「キシ」は「族長」のこと。

アチキシ
アチキシは架空の人物という節もありますが、架空の人物とするだけの証拠もありません。もちろん実在するという証拠も無いのですが。しかし、他の記事と中朝史書の記事との兼ね合いからみても「架空」とするのも無理がある。

日本書紀の「阿知使主」と同一人物と見られます。「阿知使主」は東漢氏の祖先。どちらにしても「漢人系の渡来人」。


雌馬と牡馬が一頭づつ日本に。魏志倭人伝によると日本には「馬」が居なかった。この魏志倭人伝が描いていた邪馬台国の時代は3世紀のことで、応神天皇の時代から見ると100年以上前。その間は馬が居なかったというのは十分ある。

大陸騎馬民族説
よく大和朝廷は大陸から来た騎馬民族が支配者、という説があるが、それならこの「馬が来た」という記事は載せるに値しない。牡馬雌馬計二頭が珍しいからこその記事だろう。
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