中臣氏とタケミカヅチの関係

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中臣氏とタケミカヅチの関係

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概要

まとめ
●不比等が権力を握っていたから、記紀でタケミカヅチが活躍したとは限らない。
●中臣氏は元々は有力氏族だが、分家が沢山合った。
●その中の一つの中臣氏が東国へと出向した。
●鹿島で東国経営の基礎を築き、功績が認められた。そのときの中臣氏が祀った地元の神が「タケミカヅチ」で、その認められた氏族が後の中臣鎌足。
タケミカヅチは「異国支配」「地方支配」でうまくいったケースの象徴であり、「武力」だけではなく「融和」の意味も持っていた(のではないか?)。
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不比等は権力者か

タケミカヅチの活躍は中臣氏…のちの藤原氏の出世が原因とする説が定説です。これだと確かに理屈は通ります。つまり当時の権力者である藤原不比等の影響というものです。

不比等が出世したのは編纂後
しかし藤原不比等は確かに有力者ではあったものの、権力者だったかは怪しいのです。なにせ父親の藤原鎌足がついていた天智天皇の息子の大友皇子は後の天武天皇と成る大海人皇子に壬申の乱で破れ、不比等も地方に左遷されたからです。

わたしたちは後の藤原氏の隆盛を知っています。だから不比等も凄いと思いがちです。確かに不比等は藤原氏の隆盛の土台の土台を作った人物ではありますが、その存在が注目されたのは現代でも最近のことであって、編纂当時はまだ権力者では無かったのではないかと思っています。
●もちろん編纂後は権力者です。
●701年の大宝律令の編纂にも関わっています。つまり不比等は「法律の専門家」です。この時点でもかなりの有力者です。
●不比等は元明天皇の女官の橘三千代と結婚した。
●不比等は軽皇子(文武天皇)の擁立に尽力した。文武天皇の即位は697年。
●不比等が中央に復帰したのは697年。古事記が成立したのは712年。日本書紀は720年。
●不比等の娘の宮子は文武天皇に嫁ぎ、701年に聖武天皇が生まれる。
以上を考えると編纂時には十分な権力を握っていたような気がするが、天皇の外戚が権力を得るのは、娘が皇子を産み、その皇子が天皇になってから。
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中臣はもともと有力氏族

中臣の意味
「中臣」は「神と民」の間に立つという意味です。つまり神官の家系ってことです。
その神官の中臣氏は元元から有力な氏族でした。天岩戸アマテラスが籠ったときに祝詞を読んだ天児屋命(アメノコヤネミコト)は中臣氏の祖先とされますから、大和朝廷に初期から関わった氏族です。ただ有力ということは、その子孫もネズミ算式に増えることになります。

後に藤原氏となった中臣鎌足は数ある中臣氏の一人でした。

神話の中には中臣氏と関係している神が沢山出て来ます。これらが全て中臣氏…というか藤原不比等と関係していると真面目に考えていると厄介です。後の藤原氏が藤原北家・藤原南家・藤原京家・藤原式家と別れ、その後は家が増えすぎて、いちいち藤原氏と言わずに「一条家」「二条家」「近衛家」と名乗るようになったように、家が増えるとそれぞれの家が神を別に設けて関係する神もネズミ算式に増えます。本当はほとんど関係ないのに、藤原・中臣関係の神を全部「不比等」に絡めると本質がぼやけてしまいますし、不比等の過大評価に繋がります。
●分家が出世すると新たな神を祭るようになるので神が増える。そのために中臣氏関係の神が増えてしまう。それがアメノコヤネやタケミカヅチという沢山の神。


不比等が権力者というのも疑問だし、全体的に不比等に対して過大評価があると思ってます。だから、藤原氏(中臣氏)・不比等に対する配慮から、タケミカヅチが活躍しているというのも、ちょっと疑問なのです。ではなぜ、記紀でタケミカヅチは活躍したのか? 簡単です。実際に活躍したからです。
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融和

タケミカヅチは融和の象徴
鎌足以前の中臣氏は東国の常陸国香島郡に出向しました。
この中臣氏はこのとき、別に大物でもなんでもありませんでした。中臣といっても分家が沢山ありましてその中の一家です。その一家が蝦夷との戦いの前線の東国に出向です。中央で仕事が無かったのでしょう。そんで、この東国で地域の神である雷神「タケミカヅチ」を祀ります。もともと「神」と「民」を結びつけるのが中臣氏ですから、なんともありませんし、日本人はゴリゴリの多神教です。地域の神だからといって見下すわけではありません。

このタケミカヅチを祀る事で鹿島の民と中臣氏は仲良くなり、東国経営の基礎を築くことになりました。もちろん武力での抑圧もあったはずです。軋轢もあったでしょう。そこのあたりは推測の推測ですから割愛。ともかく東国経営はうまく行き、功績が認められた。その末裔が鎌足。もしくは鎌足自身が地域と融和した当人かもしれません。

つまりタケミカヅチは融和を象徴する神だった。
融和と言っても、国譲りでの「タケミカヅチVSタケミナカタ」の様子を見れば分かるように、武力に大きく頼ったものでしょうが、地元の神「タケミカヅチ」を侵略した側が祀っているのですから、古代の侵略の常識からいうとかなり緩やかだったのではないでしょうか。

それはともかくとして、タケミカヅチは東国支配・地方支配という領土を広げる上での成功事例の象徴だったのだと思います。
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