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孝霊天皇(日本書紀)
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大日本根子彦太瓊天皇、日本足彦国押人天皇太子也。母曰押媛、蓋天足彦国押人命之女乎。天皇、以日本足彦国押人天皇七十六年春正月、立爲皇太子。百二年春正月、日本足彦国押人天皇崩。秋九月甲午朔丙午、葬日本足彦国押人天皇于玉手丘上陵。冬十二月癸亥朔丙寅、皇太子遷都於黑田、是謂廬戸宮。
元年春正月壬辰朔癸卯、太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛未。
二年春二月丙辰朔丙寅、立細媛命、爲皇后。一云、春日千乳早山香媛。一云、十市縣主等祖女眞舌媛也。后生大日本根子彦国牽天皇。妃倭国香媛亦名絚某姉、生倭迹々日百襲姫命・彦五十狹芹彦命亦名吉備津彦命・倭迹々稚屋姫命。亦妃絚某弟、生彦狹嶋命・稚武彦命。弟稚武彦命、是吉備臣之始祖也。
卅六年春正月己亥朔、立彦国牽尊、爲皇太子。
七十六年春二月丙午朔癸丑、天皇崩。
元年春正月壬辰朔癸卯、太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛未。
二年春二月丙辰朔丙寅、立細媛命、爲皇后。一云、春日千乳早山香媛。一云、十市縣主等祖女眞舌媛也。后生大日本根子彦国牽天皇。妃倭国香媛亦名絚某姉、生倭迹々日百襲姫命・彦五十狹芹彦命亦名吉備津彦命・倭迹々稚屋姫命。亦妃絚某弟、生彦狹嶋命・稚武彦命。弟稚武彦命、是吉備臣之始祖也。
卅六年春正月己亥朔、立彦国牽尊、爲皇太子。
七十六年春二月丙午朔癸丑、天皇崩。
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現代語訳
大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト=孝霊天皇)は日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト=孝安天皇)の太子(ヒツギノミコ=嫡男)です。母は押媛(オシヒメ)といいます。思うに天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト=孝昭天皇の子で孝安天皇の兄)の娘だろうか。孝霊天皇は日本足彦国押人天皇(=孝安天皇)即位76年の春1月に皇太子となりました。
孝安天皇即位102年春1月に日本足彦国押人天皇(=孝安天皇)が崩御しました。
秋9月13日に日本足彦国押人天皇(=孝安天皇)を玉手丘上陵(タマテノオカウエノミササギ)に葬りました。
冬12月4日に皇太子は都を黒田(=奈良県磯城郡田原本町黒田)に移しました。これを廬戸宮(イホトノミヤ)といいます。
孝霊天皇即位元年。春1月12日。太子は天皇に即位しました。皇后(=孝安天皇の妃の押媛のこと)を尊び、皇太后としました。この年は太歲辛未でした。
即位2年。春2月の11日。細媛命(ホソヒメノミコト)を皇后としました。
后は大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト=孝元天皇)を生みました。妃の倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ…別名を絚某姉【ハヘイロネ】)が、倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)と彦五十狹芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト…別名を吉備津彦命【キビツヒコノミコト】)と倭迹々稚屋姫命(ヤマトトトワカヤヒメノミコト)を生みました。
また別の妃が(上記の皇子と妃の)弟として、生彦狹嶋命(ヒコサシマノミコト)と稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)を生みました。稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)は吉備臣(キビノオミ)の始祖(ハジメノオヤ)です。
即位36年の春1月に彦国牽尊(ヒコクニクルノミコト)を皇太子にしました。
即位76年の春2月8日に孝霊天皇は崩御しました。
孝安天皇即位102年春1月に日本足彦国押人天皇(=孝安天皇)が崩御しました。
秋9月13日に日本足彦国押人天皇(=孝安天皇)を玉手丘上陵(タマテノオカウエノミササギ)に葬りました。
冬12月4日に皇太子は都を黒田(=奈良県磯城郡田原本町黒田)に移しました。これを廬戸宮(イホトノミヤ)といいます。
孝霊天皇即位元年。春1月12日。太子は天皇に即位しました。皇后(=孝安天皇の妃の押媛のこと)を尊び、皇太后としました。この年は太歲辛未でした。
即位2年。春2月の11日。細媛命(ホソヒメノミコト)を皇后としました。
ある書によると春日千乳早山香媛(カスガノチチハヤヤマカヒメ)といいます。
ある書によると十市縣主(トイチノアガタヌシ)たちの祖先の娘の眞舌媛(マシタヒメ)といいます。
ある書によると十市縣主(トイチノアガタヌシ)たちの祖先の娘の眞舌媛(マシタヒメ)といいます。
后は大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト=孝元天皇)を生みました。妃の倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ…別名を絚某姉【ハヘイロネ】)が、倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)と彦五十狹芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト…別名を吉備津彦命【キビツヒコノミコト】)と倭迹々稚屋姫命(ヤマトトトワカヤヒメノミコト)を生みました。
また別の妃が(上記の皇子と妃の)弟として、生彦狹嶋命(ヒコサシマノミコト)と稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)を生みました。稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)は吉備臣(キビノオミ)の始祖(ハジメノオヤ)です。
即位36年の春1月に彦国牽尊(ヒコクニクルノミコト)を皇太子にしました。
即位76年の春2月8日に孝霊天皇は崩御しました。
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解説
次の孝元天皇は長子
これまでほぼ末子だった皇太子が、ここでなぜか「長子」に。ただし、皇后の子は孝元天皇以外では「桃太郎」の元ネタとも言われる通称「吉備津彦」こと彦五十狹芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト)です。吉備津彦は現代語で言うと「吉備の男」です。大和の天皇の子息にそんな名前がつくのはおかしい。これは「吉備を後に支配した」という意味なのか、「吉備出身」なのかは、なんとも言えない。もちろん記紀をまっとうに読めば、「吉備を支配した」という意味になります。日本は支配した地域の名前を貰うのが普通で、変則的ではありますが、オウスがクマソタケルから「ヤマトタケル」という名前を貰うのが有名です。
これまでほぼ末子だった皇太子が、ここでなぜか「長子」に。ただし、皇后の子は孝元天皇以外では「桃太郎」の元ネタとも言われる通称「吉備津彦」こと彦五十狹芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト)です。吉備津彦は現代語で言うと「吉備の男」です。大和の天皇の子息にそんな名前がつくのはおかしい。これは「吉備を後に支配した」という意味なのか、「吉備出身」なのかは、なんとも言えない。もちろん記紀をまっとうに読めば、「吉備を支配した」という意味になります。日本は支配した地域の名前を貰うのが普通で、変則的ではありますが、オウスがクマソタケルから「ヤマトタケル」という名前を貰うのが有名です。
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